つるや旅館![]() つるや旅館(つるやりょかん)は、長野県北佐久郡軽井沢町にある老舗旅館である。数多くの文人たちが宿泊・滞在したことで知られている。 江戸時代初期に中山道街道筋の宿場町・軽井沢宿の休泊茶屋「旅籠鶴屋」として開業。明治時代に入り、宣教師たちが軽井沢へやって来るようになり、「つるや旅館」は日本風の建物のまま西洋風の趣を取り入れて、1886年(明治19年)に旅館業に転じる。以降、大正から昭和中頃にかけて多くの作家が常宿とするようになった。 本館・別館・奥館で構成されるが、離れである奥館は大正時代に建てられた二代目市川左團次の元別荘である(奥館は夏季のみの営業)[1]。本館は1971年(昭和46年)に火事で焼失し、現在の本館はその後に建てられたものである。 堀辰雄の小説『美しい村』で主人公が過ごしていた宿としても知られる[2]。 沿革江戸初期に(諸説あるが1624年頃)、中山道の宿場町軽井沢宿の休泊茶屋として、佐藤家により開業した「鶴屋」を起源とする。佐藤家は、中世以来の豪族であり、旅籠を営む他、天領であった軽井沢宿にあった幕府の米倉や武器庫の管理も担い、当主は「仲右衛門」と称していた。名物として、松茸飯、栗強飯、佐久鯉の鯉こく、「しっぽくそば」、「鶏のろうそく焼」が知られていた[3]。山鳥、雉、狐、山犬などの鳥獣の肉を提供していたこと、後述する水車小屋での粉挽きを行なっていたことが、明治に入ってからの外国人受け入れに役立つことになった。[4] 1886年(明治19年)に旅館業へ転じ現在に至る。1888年(明治21年)には、宣教師アレクサンダー・クロフト・ショー氏が、当時の主人・佐藤仲右衛門の斡旋を受け、大塚山に別荘を設けた。これが軽井沢における別荘第一号となり、避暑地としての軽井沢の起点となった。 大正~昭和期には、当時の作家達の「夏のサロン」としての性格を有し、正宗白鳥や北原白秋、芥川龍之介、島崎藤村らの書画が旅館に残されている。(但し、多くの書画は1971年の火事で焼失)また集客に向け、1912年(大正元年)には『かるゐざわ』を、1923年(大正12年)には『軽井沢小観』、など軽井沢のガイドブックを複数発行した。1923年(大正12年)当時の旅館案内には、「玉突其他の娯楽場も完備し、定員約80名を収容し得る純日本式ではあるが、旅客の便宜を計って、洋食部の設けもあるし、貸別荘についても相談を受けている」との記述が残っている[5]。 1971年(昭和46年)には火災で建屋が消失するも、1972年(昭和47年)には再建し、現在に至る。 戦前期には、草軽電気鉄道の新軽井沢駅周辺においても「つるや」名で旅館業を営み、「新道のつるや」として、学生等の利用も多い宿として知られていたが、現在は旧軽井沢のみの展開となっている[6]。 軽井沢の旅館営業は、以前は夏季に限られていたため、つるや旅館も、夏季以外は、新潟県の妙高温泉でスキー宿を営み、春になると軽井沢での営業を再開する形で経営を成り立たせていた時期がある[7]。 建物本館、別館、奥館が存在する。本館は、1971年に火災で焼失したため、その後、鉄筋コンクリート造として新築された。本館の再建に際しては、可能な限り旧来の旅館情緒が再現されている。 奥館の「雨翠荘」・「夏秋庵」・「よもぎ」は、歌舞伎役者の二代目市川左團次が逗留していた別荘の建物を引き継いだもので、夏季のみ営業している。 その他、軽井沢の旅籠屋であった木曾屋の建物を譲り受け、「山の家」として使用していた。(現在は使用されていない) 江戸期には水車小屋を有していた。名物のしっぽくそばの粉をひくために、鶴屋では専門の水車を持っていた。水車の仕事は鶴屋の隠居の仕事となっており、代々の仲右衛門は、隠居すると「作兵衛」と名を改めて、この水車を管理し、また、代官所の米倉・武器庫の管理を兼ねた。水車は宿場では「作兵衛小屋」と呼ばれていた。 作家達との交流本館2階の「ふじ」の部屋に毎年宿泊していた。1924年(大正13年)の夏には、片山広子、同世代の室生犀星らとともに、つるや旅館の離れに約1か月滞在。当時の主人・佐藤不二男の案内で碓氷峠に月見に出かけた記録が、芥川や片山の書簡に記録されている。片山は、日銀理事となった片山貞二郎と結婚するも1920年(大正9年)に死別。芥川は14歳年上の片山を「才力の上にも格闘出来る女」と評し、つるや旅館での出会いを切っ掛けに、双方強く惹かれ交流していたとの見解が研究者から出されている[8]。彼女が宿泊していた部屋(奥館の「山月亭」。現在は宿泊出来ない)を見るために、芥川が、つるや旅館の庭の松の木に登っていたとの話が残されている[9]。また芥川は、軽井沢中、つるや旅館は宿泊、軽井沢ホテルは西洋風夕食、万平ホテルは喫茶、と決めていたとの話も紹介されている。[10] アイルランド文学翻訳家として知られる片山広子も、つるや旅館の常客であった。芥川龍之介とのエピソードの他、つるや旅館の「もみぢ」の部屋にて執筆した詩編『しろき蛾』には、「亡き友のやどりし部屋に一夜寝て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ」など、つるや旅館を題材とした詩が残されている[11]。1945年(昭和20年)は6月より山月亭に滞在し、終戦も本旅館で迎えた。終戦時、「虚無深くまひるの庭に向ひゐぬ蝉一つ鳴く真昼の庭に」の作が残されている。当時の旅館主・佐藤不二男は、「片山さんはいつも和服を着て、背の高い美しい人でした」と回想している。[12] 戦後に数年間、つるや旅館を常宿としていた。「この旅館は由緒ある旅籠といったおもむきで、長逗留には後ろの離れのせせらぎのきこえる座敷をとってくれて、東京から蒸風呂のような汽車にゆられてきた私たちを生き返らせてくれた。山の冷気のすがすがしさ、縁先の秋草の可憐さ、一とき自然の中にいられる幸せをかみしめたものだった。」とエッセイに記している。[13] つるやに1カ月ほど滞在し、『刺青』等を執筆。中央公論社から原稿料を送ってもらっていたものの、執筆が進まず、当時のつるや旅館の関係者に案内を頼み、長野まで遊びに行ったとの話が残されている[14]。 1923年(大正12年)に初めてつるや旅館を訪れ、以後たびたび滞在した。1934年に発表された小説『美しい村』では、つるや旅館をモデルとしたとされる「村はずれの宿」が登場し、母屋の藤棚の下で遊ぶ子供たちの情景が描かれる。作中の子供「太郎」と「次郎」は、当時の旅館主の息子・佐藤太郎と次郎がモデルである。堀が逗留した離れは庭に面しており、日々の生活風景が創作に深く結びついていたとされる。 つるやに集まる作家の中心的人物。室生犀星の随筆『一日も此君なかるべからず』には、「(つるや旅館に)芥川君を紹介したのも私であった」との記述や、二代目市川左團次夫妻との交流にかかる記述が残っている[15]。昭和十年代には、冬に客がなくて困っていた旅館に、作家仲間を呼び寄せたとのエピソードも残る。『詩人・堀辰雄』には、つるや旅館に滞在している室生犀星・芥川龍之介・堀辰雄のもとに、萩原朔太郎が妹を連れてきたことから、同宿者同士の感情に一時波乱を生む場面が描かれている。また、室生が初めてつるや旅館に宿泊した際の女中「お千代さん」との交流について、彼のエッセイに記述が残っている。「お千代さんはつるや旅館の女中をしていゐたのが、はじめて軽井澤にやつてきた僕の部屋付となり、三年間の夏の番になってゐた。間もなくお千代さんはお産婆さんの試験を取り、軽井澤でただ一人の産婆さんになったのである。それから三十四年間毎夏途中で、忙しげに自転車を走らせてゐる彼女に、毎夏二三度行きあひ、そのたびに色紙か短冊の執筆をせがまれ、来年こそかくといつて三十年経つてしまった」。[16] 著名人との関わり近衛文麿とともに軽井沢集会堂委員会の一員として知られる。伊沢多喜男の案内で、華族や学習院関係者がつるや旅館に宿泊していた。 つるや旅館の常客であり、1931年(昭和6年)に旅館裏に別荘を建て、現在はつるや旅館の「奥館」、「雨翠荘」・「夏秋庵」・「よもぎ」として活用されている。室生犀星の随筆には、左團次が杉苔を愛し、気に入った杉苔を籠に入れ庭に植えていたとの記述がある[17]。また、松竹株式会社の岡崎哲也の回想では、左團次の親類であった市川子團次が「伯父さんの別荘の床柱にポマードの跡が残っていた」と述べていたことが触れられている[18]。 東京市長時代を中心に滞在。アレクサンダー・クラフト・ショーから1875年(明治8年)に洗礼を受けた。 1940年(昭和15年)7月、つるや旅館に籠った近衛文麿は、陸軍の圧力で崩壊した米内光政内閣の後を受けて、第二次近衛内閣の組閣案をつるや旅館の離れ(「菊」の部屋)で構想した。また、終戦工作についてもつるや旅館で練ったとのエピソードも残る。「軽井沢での近衛文麿はひどくくつろいで、昼は悠々歌をつくり、歴史に見せる近衛文麿という政治家の顔と違った、のびやかな素顔を見せていた」と佐藤太郎が回想している[19]。 1882年(明治15年)7月11日、旧中山道を旅行中の新島襄一行が、軽井沢に至り茶屋つるや(現在のつるや旅館)にて名物のそばを食べたとの記録が残る。[20] 軽井沢における日本人最初の別荘を建てた人間として知られる。学習院の学生をつるや旅館(但し、前述の「新道のつるや旅館」)に宿泊させ、健康の増進をはかるとともに、多くの外国人と接して修養の機会とさせた。これらの学生の中には、徳川慶久のように、後に別荘を建てた人が多かったと言われ、日本の上流社会に別荘建築が広がる契機となったとの見解がある。[21] 歴代経営者佐藤仲右衛門明治期に活躍した仲右衛門は、宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーに初の別荘用地を斡旋した人物として知られ、軽井沢が国際的避暑地へと発展する契機を築いたとされる。旅籠としての鶴屋から、近代旅館への転換を進めた先駆者として位置づけられる。 佐藤孝一仲右衛門の長男である孝一は、大正期に旅館を引き継ぎながら、日本語による最初期の軽井沢ガイドブックである『かるゐざわ』・『軽井沢小観』を出版した。つるや旅館経営に携わる前は三井物産に勤務し、帰郷後、弟の不二男とともに旅館経営に従事した。[22] 1895年(明治28年)~1975年(昭和50年)。孝一の弟である不二男は、大正末から昭和にかけて旅館を経営し、文人たちの常宿としての名声を築いた。芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄ら多くの文学者と交流し、創作の場としてつるや旅館を提供。戦後は軽井沢町長を3期務め、観光振興と町の風紀保全に尽力した。 佐藤太郎昭和中期から平成初期にかけて旅館を率いた太郎は、不二男のもてなしの記憶を受け継ぎつつ、戦後の観光復興に対応した。 つるや旅館に宿泊した作家明治時代に宿泊した作家
大正時代に宿泊した作家
昭和時代に宿泊した作家
その後交通アクセス周辺脚注
参考文献
座標: 北緯36度21分38.7秒 東経138度38分16.4秒 / 北緯36.360750度 東経138.637889度 |
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