とはずがたり『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学。作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある。1938年(昭和13年)に再発見された「新しい古典」である[1]。 タイトルは問はず語りとも表記され[2][3]、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意。 概要全般「誰に問われるでもなく自分の人生を語る」という自伝形式で、後深草院に仕えた女房(女性の側近)である二条の数え14歳(文永8年/1271年)から数え49歳(嘉元4年/1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。平安時代中期の雅やかな宮廷文化と異なり、摂関政治の終焉による退廃的な時代背景の下[4]、斎宮の愷子内親王の後深草院との関係など乱れた愛欲と共に、二条の波乱に満ちた半生が描写される[5]。 二条の告白として書かれているが、ある程度の物語的虚構性も含まれると見る研究者もいる(後述)。 『源氏物語』等の王朝文学からの影響、西行法師からの影響、また『増鏡』への影響が指摘されている(後述)。しかし、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であり、ほとんど無名のまま宮廷で秘書・禁書の扱いを受けてきた[6]。 この日記は、宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれていた桂宮本5冊のみ現存する(後述)。1940年(昭和15年)山岸徳平により『國語と國文學』誌9月号で「とはずがたり覚書」が紹介されるまでは、その存在を知る者も少なかった。天下の孤本といわれる。[要出典] 桂宮本現存する唯一の写本である。江戸時代前期に製作され、袋綴じ、美濃判である[7]。表紙に貼り付けられた題簽(題箋)は、すべて第112代霊元天皇の筆跡によるとされる[7]。 桂宮家は、第107代後陽成天皇の弟智仁親王を祖とし、和歌や物語を所有・伝承する学芸の宮家であった[6]。現存する写本の正確な作製時期は不明である[6]。伊地知鉄男によれば、第111代後西天皇や霊元天皇の時代に、禁裏複本事業のひとつとして写本が作成されたと考えられている[6]。 再発見に至る経緯、研究史1938年(昭和13年)冬、宮内省図書寮(のちの宮内庁書陵部)で、国文学者の山岸徳平が発見した[6]。書籍目録では地理に分類されていたのを、山岸は書名からしていぶかしく思い、探し出したという。 再発見後、初期の研究資料は次の通り[7]。
この桂宮本叢書刊行をもって、広く一般へ公開された。昭和30年代より、『とはずがたり』が日本の中世文学の一つに数えられるようになり、これは当時の研究の進展と活況を示している[8]。本格的な研究による訳注本は、昭和40年代に相次いで刊行された[7]。
なお、鎌倉時代後期にさかのぼるとみられる古写本一種類の断簡が数点知られるが、本文は書陵部本と差異が大きい。 主な登場人物![]()
あらすじ
他の古典文学作品との関係『源氏物語』等王朝文学からの影響『とはずがたり』前半部の展開や和歌には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)からの強い影響が見られる[9]。二条の生きた鎌倉時代には、貴族は政治的実権を喪っており、『源氏物語』に象徴される王朝貴族の理想像とかけ離れつつも、回想的規範として貴族達のプライドを支えていた[10]。宮廷に育った二条は、当然、『源氏物語』や『狭衣物語』等の王朝文学に対する教養を有していた[11][12]。また二条は、これらの物語の表現を引用しつつもタイトルへの言及を避け、「昔物語めきて」(昔の物語のようだ)と著している[10]。 また、『とはずがたり』中の和歌の引用(本歌取り)も、鈴木儀一の分析では、『新古今集』から25首、『古今集』から22首、『続古今集』から10首、また『源氏物語』から21首、『伊勢物語』から12首などとなっている[13]。特に古今集は22首中16首が『源氏』における引用と同一であり、鈴木はこの点からも二条の『源氏』への傾倒ぶりを見出している[13]。 この他、内容の類似性に次のようなものがある。
西行法師からの影響『とはずがたり』後半部の展開や和歌には、『山家集』を初めとする西行法師(元永元年(1118年) - 文治6年(1190年))の和歌や生涯からの強い影響が見られる[14]。 『増鏡』への影響歴史物語『増鏡』(南北朝時代成立)には、『とはずがたり』の文章が数段にわたって用いられている。また、『とはずがたり』発見以前には後深草天皇の女性関係に関する記録が乏しく、『増鏡』における同天皇の女性関係の記述を創作、あるいは弟の亀山天皇のものとの誤認説を唱える学者もいたが、この書の発見以後『増鏡』の記述に根拠があることが確認された。 後世への影響瀬戸内寂聴作品作家の瀬戸内晴美は、1966年(昭和41年)に井上光晴と恋愛関係となり、1973年(昭和48年)に関係清算のため出家し瀬戸内寂聴となった。この昭和40年代における瀬戸内について、『とはずがたり』及び著者の後深草院二条からの影響を指摘する見解がある。 町田榮によれば、『煩悩夢幻』(1965年/昭和40年発表)と『この救われざるもの-かげろふ日記私考』における、瀬戸内の「ものを書く女」観の変化について、『とはずがたり』の影響を見出すことが出来る[15]。この二作品の間は、『とはずがたり』が世に広まる最中であり、瀬戸内も1971年(昭和46年)に宮内庁書陵部研究員の八嶌正治から講義を受け、また本文や現代語訳を読了した[16]。さらに『祇園女御』(1968年/昭和43年)の解説にも『とはずがたり』からの引用を用いた[16]。 1973年(昭和48年)、出家と同年に瀬戸内は『中世炎上』で後深草院二条を主題とした作品を発表するに至った。
虚構説ジェンダー論・テクスト論から日本文学研究者の田中貴子は、本作品の内容をそのまま事実と見ることは、ジェンダー論・テクスト論の観点から問題があると主張している[17]。 田中の主張によれば、日本文学においては、紀貫之による『土佐日記』以来、「女の書くものは、たとえ物語的な虚構に包まれていても、その根幹は私的事実の表白である」というテクスト(解釈、文脈)が、ジェンダーとしての女性に与えられていたという[17]。つまり、読者が『とはずがたり』にリアリティを感じるとしたら、それは「女性とは退廃的な愛欲を赤裸々に告白するもの」という伝統的な性差意識の文脈に、その読者が囚われているからである[17]。そして、『とはずがたり』作者はまさにその点を突き、ジェンダーとしての女性の仮面を被って、そのような性差意識の文脈に忠実に沿うような文章を書くことで、巧妙に現実性のある虚構を創造したのではないか、と推測している[17]。 いうなれば、『土佐日記』は男性が「女」の振りをして書いた文学であるが、『とはずがたり』は女性が「女」の振りをして書いた文学といえる[17]。田中によれば、『とはずがたり』の持つリアリティは、物語としてのリアリティであって、歴史的な事実(リアリティ)とは考えられないという[17]。 翻訳と反響アメリカ合衆国の日本文学研究者であるカレン・ブレーゼルはコロンビア大学の学位論文として『とはずがたり』を英語に翻訳し、1973年に『The Confessions of Lady Nijo』の題で一般向けに出版した。この翻訳は好評を得て1974年の全米図書賞を受賞した[18]。同じ1973年にライナー・クレンピーンによる学術的なドイツ語訳も出版された[19]。 1981年には、共産主義政権下のブルガリア人民共和国でツベタナ・クリステワによる訳が出版され[20]、3万5000部以上を売り上げるベストセラーとなった[21]。 主な版本
関連作品
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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