みちのくプロレス
みちのくプロレスは、東北地方を中心に活動しているプロレス団体。 概要ザ・グレート・サスケが地域密着型プロレス団体として設立。日本では初のローカル団体であるが、これは「地方の小規模会場であれば会場使用料が安い」、「地方では娯楽が少ない為潜在的な客層がある」という経営戦略の一部でもある。試合の宣伝、試合会場の設営と撤収、グッズ販売は所属選手とスタッフが自ら行う「手作りプロレス」をコンセプトとし支出を抑えている。 初期の事務所と道場はサスケの実家にあった納屋を利用するなどして徹底した支出抑制策をとった結果、1回の興行の集客が200人から300人規模でも利益を上げる事に成功している。サスケの個人的信条として職務中もマスクをつけているが他の企業(プロレス団体を含む)を訪問したり、経理で金融機関を訪れる際もスーツにマスクといった姿であるため、副次的要因として旗揚げ初期には宣伝効果が高まった。日本全国を問わずマスコミの取材には積極的に応じて宣伝、広報活動の一環としている。 メキシコのルチャリブレを持ち味とするため、次の2点で日本の他の(一般的な)プロレス団体と異なる。
歴史旗揚げまでの経緯1992年10月1日、ユニバーサル・プロレスリングを退団したザ・グレート・サスケが東北でのプロレス振興を目的に岩手に設立。サスケがユニバーサルを退団した背景にはギャラが支払われなかったという事情があり、代表の新間寿恒には「ユニバーサルの東北支部として地方大会のプロモートを目的としたい」と話していたが実質的には採算を見込んだ動きであった(サスケはユニバーサル所属選手一人一人に個人的に声を掛けて上記の経営プランを明かした上で勧誘していた)。11月27日、岩手産業文化センターでプレ旗揚げ戦を開催。 旗揚げ1993年3月16日、矢巾町民総合体育館で旗揚げ戦を開催。6月、複数のユニバーサル所属選手が、みちのくプロレスに移籍。 1994年2月4日、初の後楽園ホール大会を開催して超満員札止めを記録。しかし、当日の早朝に主催者であるバトル・クリップの代表が売上金と共に連絡がつかないことが発覚[3]。オープニングの挨拶でサスケはネタのように話していた。このニュースは『週刊プロレス』600号の表紙を飾った。4月16日、新日本プロレス主催で開催された「SUPER J-CUP」に出場したサスケが準優勝。6月13日、新日本プロレスで開催された「BEST OF THE SUPER Jr.」に出場したスペル・デルフィンが準優勝。 その後も所属選手が新日本プロレスに参戦して活躍したことでローカル団体ながら一気に全国区の人気プロレス団体になる。新日本プロレスの一部所属選手からは反感を買ったが上層部からの評価は良く、テレビ朝日の番組『ワールドプロレスリング』の解説を務めていたマサ斎藤は「みちのくプロレスのルーチャ(ルチャリブレ)ですか。こんな素晴らしくて楽しいものとは思わなかったですね。みちのくプロレスの選手の若いエネルギーを感じた」とコメント。 新日本プロレスでの活躍により、所属選手は他団体からひっぱりだこの状態になったり正規軍、ルード軍「デルフィン軍団」、ルード軍「海援隊☆DX」による抗争などで集客が伸びてビッグマッチや東北以外の試合会場はどこも常に超満員になった。 所属選手の大量離脱1997年3月、獅龍が退団。10月、TAKAみちのくがWWFと契約。 1998年1月16日、サスケの右膝負傷による長期欠場で活動休止に追い込まれる。1月17日、デルフィンら選手組合が記者会見を行って活動続行することを発表。3月、ディック東郷、MEN'Sテイオー、船木勝一がWWFと契約。9月23日、あることがきっかけでサスケとデルフィンに亀裂が生じる[注 2]。10月8日、サスケはリングネームをSASUKEに改名と同時にルード軍「SASUKE組」を結成[注 3]。12月、中島半蔵が退団。 1999年1月17日、デルフィン、愚乱・浪花、星川尚浩、薬師寺正人、瀬野優、レフェリーの松井幸則が記者会見を行って退団することを発表。1月18日、浪花がデルフィンらと別れて団体預かりとして再入団。2月、SASUKEがリングネームをザ・グレート・サスケに戻した[注 4]。3月、フリーの選手を中心とした興行形態に切り替える。 2004年7月、元闘龍門X所属選手を中心とした興行形態に切り替える。 岩手から宮城へ移転2006年4月16日、大阪プロレスに参戦した新崎人生がデルフィンとのシングルマッチでレフェリーのタナベによる理不尽なジャッジで負けたことがきっかけで大阪プロレスとの抗争が始まる。6月10日、東北ジュニアヘビー級王者のデルフィン対挑戦者の気仙沼二郎によるタイトルマッチが行われてデルフィンの反則行為、レフェリーのタナベによる高速カウントでデルフィンが勝利すると観客が激怒してリングに物が投げ込まれた。9月3日、大阪プロレスとの抗争に無関心だったサスケがデルフィンに挑発されて激怒する。10月8日、東北ジュニアヘビー級王者のデルフィン対挑戦者のサスケによるタイトルマッチが行われて、波乱がありながらもサスケが勝利して確執のなかサスケとデルフィンは握手を交わした。 2008年6月19日から7月21日、旗揚げ15周年記念ツアー「15周年ノスタルジックツアー」を開催。 宮城から岩手へ再移転2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)並びに福島第一原子力発電所での福島第一原子力発電所事故の影響で所属選手とスタッフが避難所での生活を余儀なくされる(避難所での生活中、所属選手とスタッフは被災地で慰問試合と炊き出しを通じて被災者との交流を行っていた)。また、3月に毎年恒例の九州シリーズは東日本大震災の直後ということもあり、中止も検討したが東北の支援をするために例年通りに開催することを決めた(東北での興行は試合会場の被災等により、いくつか中止された)。なお、バスとトラックは九州まで山形越えのルートで行った(東北自動車道などが崩壊していたためである)。 2025年、親会社「株式会社陸奥」[2]よりみちのくプロレスの全株式を取得し、新法人「株式会社ミチプロ」を設立。代表者は新崎人生。コミッショナーはフジタJr.ハヤト。また一部の試合をWRESTLE UNIVERSEでの配信開始。 主な興行
タイトルホルダー
所属選手、主要参戦選手正規軍
大瀬良軍
バラモン兄弟→詳細は「バラモン兄弟」を参照
スタッフレフェリーリングアナウンサートレーナー歴代タイトル歴代所属選手
歴代レギュラー参戦選手
歴代スタッフ試合中継
関連番組
映像、音楽作品VHS
DVD
CD
脚注注釈
出典
外部リンク
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