よこすか開国花火大会
よこすか開国花火大会(よこすかかいこくはなびたいかい)は、神奈川県横須賀市うみかぜ公園、三笠公園、米海軍横須賀基地において行われる県内でも有数の花火大会である。 概要
天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人によって鉄砲と爆薬物とその製法も併せて伝えられた[3]。 軍事用として鉄砲、大筒、狼煙などに活用され、関ヶ原の役や天草の乱が終わった徳川泰平期には観賞花火へと移っていった[3]。 そして慶長5年(1600年)頃、細川幽斎の家臣・稲富の砲術家・伊賀守直家は、細川家を追放され徳川家康に仕えたが、その後、尾州家お預けで尾州家の砲術師範として貢献した[3]。 慶長17年(1612年)、足助八幡社に『扇的打図』という花火に関する偏額に「尾州藩稲留派先生当国住岩神村沢田四郎衛門行年78才」と記し献納されていることから、稲富直家の門人が花火技術を伝えた資料と考えられている[3]。
花火を日本で最初に観たのは徳川家康という定説がある、『駿府政事録』には「慶長18年(1613年)8月3日、明国の商人がイギリス人を案内して駿府城に徳川家康を訪ね、家康に城の二の丸で花火を供覧した。」との記述がある[4]。 三代将軍家光も花火が好きだったそうで、諸大名も好んで納涼の催しとして花火を楽しんだ[4]。 尾張、紀州、水戸の親藩、仙台、加賀など雄藩の花火は特に人気があり、江戸市民も夕涼みを兼ね花火見物をした[4]。
横須賀市は神奈川県南東の三浦半島の北半分に位置し、東は東京湾(浦賀水道)、西は相模湾に面している。 東京湾入口のため江戸時代から国防拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市として栄えた。 多くの志士が日本の未来を想い、憂い、自分の志のために戦った時代であり、浦賀は日本の海外への扉を開いた場所でもある。 横須賀市はペリー来航150周年という歴史の節目を記念して、 平成15年(2003年)に「よこすか開国祭」が開かれ、「よこすか開国花火大会」はそのフィナーレを飾るイベントである[2]。 打ち上げ場所が東京湾内の「横須賀市うみかぜ公園沖合」の海上3ヶ所で、周りに遮るものがないためビューポイントがとても豊富である[2]。 神奈川県内でも有数の花火大会であり、尺玉やスターマインなど30分間に約5,000発を絶え間なく打ち上げる[2]。 また、例年同日開催している米海軍横須賀基地開放イベントである「ヨコスカフレンドシップデー」も開催される[2]。 米海軍横須賀基地への入場には、国籍を証明でき顔写真付きの身分証明書が必要である[2]。現在もアメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地や航空自衛隊武山分屯基地などが置かれている[2]。 打上花火と仕掛花火
花火技術は日本は世界一といわれており、とくに打上花火の割物花火の技術が高い[5]。
代表的なのは枠仕掛で、丸太で組んだ櫓に絵形や文字などを浮だたせる[6]。
昭和60年(1985年)に打上花火の点火方法が変わった、それまでは花火師が火種を持ち直接点火していたが、鍵屋が「電気点火器」を開発し、秒単位で細かな遠隔操作による着火が行われるようになった[7]。着火のタイミングや花火の色、形、種類、位置取りなどの組み合わせが、テーマに合わせた演出が可能になった[7]。花火師がコンピュータにプログラムし打上げる方法もあるが、ただし、鍵屋ではいまだに着火するタイミングをボタン式に拘り、花火師が状況を読み取り「絶妙な間」で花火を打上げている[7]。 開催内容
アクセス
脚注
関連文献
関連項目外部リンク |
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