よみうりゴルフ倶楽部
よみうりゴルフ倶楽部(よみうりゴルフくらぶ)は、東京都稲城市矢野口にあるゴルフ場である。 概要1957年(昭和32年)、第5回ワールドカップが「霞ヶ関カンツリー倶楽部」で開催され、小野光一と中村寅吉が団体戦に初優勝した[1]。この大会の誘致は、国際ゴルフ連盟の創始者(原子力平和使節団長)J・ホプキンスと国務大臣、株式会社読売新聞社主(原子力委員会委員長)正力松太郎の「原子力平和利用」交遊が実を結んだ結果だった[1]。その時、正力松太郎は国際競技水準のゴルフ場を造ろうと決意した[1]。そして、読売グループでは「よみうりランド構想」が動き出した。 神奈川県川崎市菅地区に川崎競馬場を移転。その隣接の東京都稲城地区を加えた用地は遊園地と、パブリックゴルフコース18ホールと国際級ゴルフ場18ホールが計画された[1]。 1959年(昭和34年)8月、「よみうりパブリックコース」のコース設計を井上誠一に依頼、コース造成工事が着工された[1]。1961年(昭和36年)6月1日、インコース(現・アウトコース)が完成し、仮開場された[1]。同年8月1日、アウトコース(現・インコース)が完成した[1]。1961年(昭和36年)11月1日、18ホールが正式開場され、アーノルド・パーマー、ゲーリー・プレーヤーが開場式に参加した[1]。 1962年(昭和37年)11月、「東京よみうりカントリークラブ」(1964年(昭和39年)開場、設計:井上誠一)が完成し仮開場。理事長に正力が就任した[1]。1962年(昭和37年)、遊園地よみうりランドの拡張が開始され、1964年(昭和39年)、モノレールの延長によりパブリックコースのアウトコース9ホールが閉鎖となった[1]。その2カ月後の7月1日、コース設計を浅見緑蔵に依頼。造成工事を行っていたインコース9ホールが完成し、従来のインコース9ホールをアウトコースとする読売パブリーツク18ホールが誕生した[1]。 1978年(昭和53年)、「千葉よみうりカントリークラブ」が開場したことでパブリックコースを移転させ、東京よみうりパブリーツクコースは法人会員制の「よみうりゴルフ倶楽部」となった[1]。 所在地東京都稲城市矢野口3376-1番地 コース情報
クラブ情報ギャラリー交通アクセス鉄道 道路 脚注
関連文献
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