アイーダ![]()
『アイーダ』 (伊: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトとエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。 この作品はしばしば「スエズ運河の開通(1869年)を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウスの杮落し公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの『魔笛』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の興亡がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。 基本データ
作曲の経緯『ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家で、オペラ座やオペラ=コミック座の支配人であったカミーユ・デュ・ロクルとの間で進められていた。デュ・ロクルは種々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。 それらのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、ウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。後の2作が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲したオペラ・ブッファは、第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみで、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。 カイロからの委嘱![]() このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディに祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督イスマーイール・パシャである。それは1869年11月に開通したスエズ運河の祝賀事業の一環としてパシャがカイロに建設したオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)の開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。 結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて伝えてきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)、更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。 依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春で、スエズ運河が開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。 イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーやワーグナーに変更してもいい。」という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が芽生え、それまでブッファによる新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのは、ヴェルディに腰をあげさせるためのデュ・ロクルの作戦だった可能性もある。また、提示された原案には、愛と法、国家と個人それぞれの相克が描かれているとヴェルディが感じ取り、創作意欲を刺激されたこと、ヒロインのアイーダについては、当時愛人関係になっていたと思われる名ソプラノ、テレーザ・シュトルツに歌ってもらいたいとヴェルディが着想したことなども要因として指摘されている。 1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は
という、もはや十分安定した生活を手にした世界的作曲家でありながら、相変わらず経済的に抜け目のない彼の特性が存分に発揮された要望であったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。 台本に関与した人々![]() マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。
1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている)。 またこれとはまったく別個に、1756年にピエトロ・メタスタージオによって著され、ニコロ・コンフォルティ(1756年初演)、ニコロ・ピッチンニ(1757年初演)、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1758年初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』(Nitteti) こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。 なお、マリエットの「原案」で "Aïda" にトレマ記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では "Aida" と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。 作曲された経緯当作はカイロから委嘱されたものであったが、異国情緒も盛り込んだ雄大な作品に仕立てられそうだと予感したヴェルディは、19世紀に流行したフランス・グランド・オペラの様式を応用した作曲技法を駆使しようと着想する。 ヴェルディは1854年にパリからの委嘱で「シチリアの晩鐘」(翌55年初演)を作曲以来、当作の前作にあたる「ドン・カルロ」(67年初演)まで、繰り返しパリの劇場からの要請に応えてグランド・オペラ様式で作品を発表したが、当時のヨーロッパ文化の中心地であったパリでの決定的成功には至っておらず、ヴェルディ自身その点は心残りであったと伝えられる。当作において作品の性質上、パリでの仕事で学んだ様式が有効と判断したヴェルディは、グランド・オペラ様式を忠実になぞるのではなく、グランド・オペラの精神に自らの創意と個性を融合させた、おそらくは彼にしかなしえない“イタリア風グランド・オペラ”を作りあげたいと構想を固め、作曲を進めた。 ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが(少なくとも作曲時の19世紀においては)考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます」という返信をしている。こうして無事に(?)巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。 1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができるオーケストレーションまでを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月(台本の初回受領からは4か月)で総譜まで完成というのは、『アイーダ』のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。 普仏戦争による遅延、そして初演上述のように『アイーダ』カイロ初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、パリで製作されていたが、プロイセン軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった(ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、気球に載せて送出した郵便で知った)。 このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していたミラノ・スカラ座でのイタリア初演も1年の延期とした。 カイロでの初演は1871年12月に変更され、イスマーイール・パシャはヴェルディに初演への招待状を送った。ヴェルディは自作初演の際は出来る限り現地に赴いて初演を監督するようにしていたが、今回は先述通り初演への立ち会いはしないと契約時に明文化していたこと、また欧州各地の有名ジャーナリストたちも招待されていると知り、自分の来演が宣伝に利用されることを懸念したことや船旅を好まなかったことから、ヴェルディは初演には結局出席しなかった。 初演の前評判は上々で、エジプト貴族たちのみならず、欧州の上流階級からも多数の予約が舞い込み、本番の2週間前には入場券が完売し、イスマーイール・パシャは狂喜の電報をヴェルディに送ったと伝えられる。 1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、彼自身より正念場ととらえていたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。 編成登場人物以下の各人物描写は1873年にリコルディ社より出版された舞台指示書 (disposizione scenica) に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出は必ずしもそれに従うわけではない。
管弦楽
上演時間約2時間20分(各40分、40分、30分、30分) あらすじ第1幕第1場エチオピア軍がエジプトに迫るとの噂が伝わっている。祭司長ラムフィスは司令官を誰にすべきかの神託を得、若きラダメスにそれとなく暗示する。ラダメスは王女アムネリスに仕える奴隷アイーダ(実はエチオピアの王女だが、その素性は誰も知らない)と相思相愛にあり、司令官となった暁には勝利を彼女に捧げたいと願う。アムネリスもまた彼に心を寄せており、直感的にアイーダが恋敵であると悟り、激しく嫉妬する。国王が一同を従え登場、使者の報告を聞いた後ラダメスを司令官に任命する。一同はラダメスに「勝利者として帰還せよ」と叫び退場する。アイーダは舞台に一人残り、父であるエチオピア王と恋人・ラダメスが戦わなければならない運命を嘆き、自らの死を神に願う。 第2場![]() プタハ神殿では勝利を祈願する儀式が行われ、ラダメスとラムフィス、祭司たちの敬虔な歌声に巫女の声が唱和する。 第2幕第1場エジプト軍勝利の一報が入り、アムネリスは豪華に着飾って祝宴の準備をしている。祖国が敗れ沈痛な面持ちのアイーダに向かってアムネリスは「エジプト軍は勝ったが、ラダメスは戦死した」と虚偽を述べて動揺させ、自分もラダメスを想っていること、王女と奴隷という身分の相違から、自分こそがラダメスを得るであろうことを宣言する。 第2場![]()
最も有名な場面である。ラダメスは軍勢を率いて凱旋する。彼はエチオピア人捕虜の釈放を国王に願う。捕虜の中には身分を隠したアモナズロもいたので、アイーダはつい「お父さん」と言ってしまうが、アモナズロは「国王は戦死し、いまや我々は無力」と偽りを述べ、彼の身分は発覚せずにすむ。ラムフィスはアモナズロを人質として残すことを条件に捕虜釈放に同意、国王はラダメスに娘アムネリスを与え、次代国王にも指名する。勝ち誇るアムネリス、絶望に沈むアイーダ、復讐戦を画策するアモナズロなどの歌が、エジプトの栄光を讃える大合唱と共に展開する。 第3幕次のエジプト軍の動きを探ろうとするアモナズロは、司令官ラダメスからそれを聞き出すようにアイーダに命じる。アイーダは迷いつつもラダメスにともにエジプトを離れることを望み、ラダメスも応じる。だが、アイーダが逃げ道を聞くので、ラダメスは最高機密であるエジプト軍の行軍経路を口にしてしまう。アモナズロは欣喜雀躍して登場、一緒にエチオピアに逃げようと勧めるが、愕然とするラダメスは自らの軽率を悔いる。そこにアムネリスとラムフィス、祭司たちが登場、アモナズロとアイーダ父娘は逃亡するが、ラダメスは自らの意思でそこに留まり、「祭司殿、私の身はあなたに!」と言って捕縛される。 第4幕第1場アムネリスは裁判を待つラダメスに面会する。彼女は、エチオピア軍の再起は鎮圧され、アモナズロは戦死したがアイーダは行方不明のままであると彼に告げ、ラダメスがアイーダを諦め自分の愛を受け容れてくれるなら、自分も助命に奔走しよう、とまで言うが、ラダメスはその提案を「あなたの情けが恐ろしい」と拒絶し審判の場へ向かう。アムネリスは裁判を司る祭司たちに必死に減刑を乞うが聞き入れられない。アムネリスが苦しみ悶える中、ラダメスは一切の弁明を行わず黙秘、裏切り者とされ地下牢に生き埋めの刑と決定する。 第2場![]() 舞台は上下2層に分かれ、下層は地下牢、上層は神殿。ラダメスが地下牢に入れられると、そこにはアイーダが待っている。彼女は判決を予想してここに潜んでいたのだと言う。2人は現世の苦しみに別れを告げ、平穏に死んで行く。地上の神殿では祭司たちが神に対する賛歌を歌う中、アムネリスがラダメスの冥福を静かに祈って、幕。 主要曲
凱旋行進曲
第2幕第2場で演奏される「凱旋行進曲」は、本作を代表する曲の中でも独立して聞かれることが多いものである。演奏においても劇的効果を挙げるため、この部分のトランペットは「アイーダトランペット(ファンファーレ・トランペット)」という独自のトランペットで舞台上で演奏される。 この曲はトランペットのファンファーレと弦楽の掛け合いで始まり、それに混声合唱が加わり、曲調は一つのピークを迎える。その後、女声、男声の合唱がたたみかけるように歌われ、主題の導入を迎える。主題1はトランペットの演奏で淡々と行われ主題2が来るが、その後増2度上に転調した上に伴奏が一層派手につき、豪華になる。 サッカーと「凱旋行進曲」日本ではサッカーの応援歌として本曲の主題1が歌われるが、その由来として、中田英寿がイタリアセリエAのパルマFC在籍時、同クラブの応援歌にアイーダの「凱旋行進曲」が使用されているのを気に入ったことを自身のHPで語ったことがきっかけである、という風聞がある。ただし、実際には中田がパルマFCに移籍した2001年より前から日本代表戦などで使用されており、1994年にビクターエンタテインメントから販売されたサッカー応援曲のCDにも収録されているなど、応援歌として既に認知されていた。なお、パルマFCは設立当初は「我らが街の偉人ジュゼッペ・ヴェルディ」にちなんで「ヴェルディ・フットボール・クラブ」 (Verdi Football Club) と名乗っていた。 主要各国での初演と上演小史イタリア
アルゼンチンアメリカ合衆国![]()
オーストリアドイツ
フランス![]()
イギリス
日本
野外オペラ公演![]() 第1幕第2場(神殿の場)、第2幕第2場(凱旋の場)などスペクタクル的要素にも富んでいる『アイーダ』は、野外オペラ公演において好んで取り上げられる曲目でもある。
アイーダ・トランペットヴェルディは音楽的に「エジプト的なもの」を取り入れようと考えていた。彼はまず楽器史関連書籍にあった「エジプトの笛」なる記述に関心を寄せ、現物を確認しようとフィレンツェの博物館にまで赴いている。この時はその笛が、ヨーロッパで当時普通に使われていた羊飼いの呼笛と大差ないものであることに落胆しただけだった。 ヴェルディは作曲にあたってデュ・ロクルを通してマリエット・ベイに古代エジプト文化等について尋ね、またリコルディ社にも詳しい調査を依頼するなど、様々な方法を駆使してエジプト文化についてかなり綿密な時代考証を重ね、それら知識を咀嚼した上で作曲を進めた。 その後(1870年7月頃)ヴェルディは、凱旋の場で「エジプト風」のトランペットを導入し、行進曲を添えることを考えた。モデルとなったのはルーヴル美術館に収蔵された唯一の現物、並びに様々の壁画に描かれた長管の楽器であったと考えられる。特注されたこれら「アイーダ・トランペット」は管長約1.2mの長大なものであり、舞台で6本揃えば異国情緒を演出するには十分な偉容である。スカラ座でのイタリア初演後数年間は、これらトランペット6本1組は『アイーダ』総譜と共にリコルディ社から各劇場に公演の都度貸与され、それを使用することが公演の付帯条件とされていた。このように見せ場も設けながらヴェルディは彼独自のエジプト音楽を作りあげ、傑作へと昇華させた。 異国情緒、綿密な時代考証といった「こだわり」はパリの「グランド・オペラ」様式の延長線上に『アイーダ』があることを示している。しかし、ヴェルディの没後1922年になってツタンカーメン王の墓から発見されたトランペット状の管楽器は、管長50cm内外の比較的短いものばかりであり、ヴェルディらの考証作業も(考古学的観点からは)不十分だった、ということになる。 アイーダ・シンフォニア(序曲)『アイーダ』のスカラ座初演時には、カイロ初演時の前奏曲に差し替えられる形で"シンフォニア"(序曲)が付けられる予定であった。これはオペラの各場面から5つの主題を(時系列的に)構成するものとして作曲されたが、結局その曲は放棄された。ヴェルディの書簡には「ミラノでのリハーサルで序曲を試み、(スカラ座の)オーケストラもその内容をよく理解してくれたが、彼らの技量がしっかりしているぶん、内容の空疎さが明らかになってしまった」とあり、簡潔な前奏曲を内容的に上回ることができなかったことがヴェルディがこの序曲を用いなかった理由とみられる。 初演から70年近く経た1940年3月30日に、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団によってこの序曲が初演(放送公演)された。1913年、ヴェルディ生誕100周年時にサンターガタのヴェルディ親族から同曲の譜面を示されたことを機に、トスカニーニは演奏を熱望し、ついにこの初演時にだけ持ち出しを許可された。しかし演奏直後、再び親族の手によって封印されてしまうこととなる。 トスカニーニと米国にこの「世界初演」の功を奪われたことを不快に思ったムッソリーニのイタリアでも、「ヴェルディ展」の開幕式の一環として同年6月4日、ベルナルディーノ・モリナーリ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏で急遽ヨーロッパ初演がなされた(オペラ・ファンであったムッソリーニ自身、この演奏会の聴衆であり、一説にはこの演奏自体が彼の命令によるという)。 これらの演奏の後、この曲を指揮したのはクラウディオ・アバド、リッカルド・シャイーらである。アバドはトスカニーニ盤から楽譜を起こし、1977年にスカラ座のオーケストラにより演奏した(コンサート形式)。一方、シャイーは音楽学者でピアニストのピエトロ・スパーダが起こした版を使用して演奏した。 上記の理由により、『アイーダ』では序曲を使用することを諦めたヴェルディであったが、年を経た次作の『オテロ』(1887年)でもシンフォニアを捨てきれなかったのか、一応は作曲している。しかし、こちらも最終的には使用はされなかった(これもシャイーがレコーディングしている)。 ミュージカル→「アイーダ (ミュージカル)」および「王家に捧ぐ歌」を参照
歌舞伎2008年、八月納涼大歌舞伎・第三部で『野田版 愛陀姫(あいだひめ)』という題で上演された。作・演出は野田秀樹、出演は中村勘三郎ほか。舞台設定を戦国時代、斎藤道三が治める美濃に移して翻案、役名も愛陀姫(アイーダ)、木村駄目助座衛門(ラダメス)といった具合に変えられている。勘三郎演じる濃姫(アムネリス)の悲恋に主軸が置かれた物語になっている。 脚注関連項目
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia