アメデオ・モディリアーニ
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884年7月12日 - 1920年1月24日)は、イタリアの画家、彫刻家。主にパリで制作活動を行った。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。 来歴幼少期![]() 1884年にトスカーナ地方の都市、リヴォルノのローマ街33番地において、フラミニオ・モディリアーニ(父)とウジェニー・ガルサン(母)の間に、2男1女に続く末っ子として生まれる。 両親はともにセファルディ・ユダヤ系のイタリア人とフランス人である。当時モディリアーニ家は林業や銀鉱を経営していたが、モディリアーニが生まれた年に倒産している。 父フラミニオはモディリアーニの幼少期に旅行をすることが多く、モディリアーニの話し相手になっていたのは母方の祖父イザーク・ガルサンであった。彼は博学で、モディリアーニに芸術や哲学の話を聞かせていた。 一方、母ウジェニー・ガルサンには日記をつける習慣があり、そこからはモディリアーニの芸術の才能に早くから気づいていたことを窺い知ることができる。 1895年の日記にはこう記されている。
学生時代1898年、14歳のとき、風景画家のグリエルモ・ミケーリのアトリエでデッサンの指導を受けるようになる。 1899年、アトリエで最良の友となるオスカル・ギリアに出会うが、翌1900年、結核に冒される。 明くる1901年、転地療養のため母とナポリ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを旅行する。この際、訪れた教会などで見たイタリア美術、殊に14世紀シエナ派のティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に強い感銘を受ける。 このときの強い印象について彼は友人のオスカル・ギリアに何度も手紙を書いている。 1902年、フィレンツェに赴き、裸体画教室に学んだ後、翌1903年にはヴェネツィアに移住し、美術学校に入学する。 そこで、カルパッチョ、ベリーニ、シエナ派の研究を行う。この頃、伯父のアメデ・ガルサンの援助を受けていたが、1905年の死去により、モディリアーニのパリ移住は先延ばしとなる。しかしその年の暮れに母が資金を与え、ついにパリへ向かう。 パリ時代1906年1月、パリへ移住。アカデミー・コラロッシに入学。 モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始める。そこはアパート洗濯船に近く、モンマルトルの画家たちと知り合う。この頃、パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。 1907年末、サロン・ドートンヌに出品するが、同所の回顧展でポール・セザンヌを知り、強い衝撃を受ける。なお、同サロンには1912年にも出品している。また同じ頃、医学研修生のポール・アレクサンドルの勧めで、サロン・デ・サンデパンダンに入会する。 アレクサンドルはモディリアーニの絵画をパリで最初に購入した人物である。アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。しかし当時の評価は低く、ごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。 なお、彼の死後の1926年の回顧展では新聞は高く評価し、例えば肖像画は3万5千フランで売れたことが記録されている。 1909年、モンパルナスに移る。ここでルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシと交流する。また、この時期に彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。 資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、途中で断念せざるを得なかったが、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができる。 ![]() 1914年、パリでも著名な画商であったポール・ギヨームと知り合い、ギヨーム本人や友人のマックス・ジャコブの勧めもあって、1915年頃から絵画に専念し、画業を始める。 当時シャイム・スーティン、藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友関係にあった[1]。 1914年7月、英国人女性のベアトリス・ヘイスティングスと知り合い、2年間交際する。 同じ頃、第一次世界大戦が勃発し、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となった一方、長く親交のあったポール・アレクサンドルは召集されてしまい、その後は出会うことはなくなる。 1916年には、ポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに、画材などを提供してもらっている。また、同年、シモーヌ・ティローを愛人とするが、翌年別れる。 ![]() 1917年3月、アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始める。 12月、生前唯一となる個展を開催したが、警察を巻き込む騒動となる。 1918年、転地療養のためニースに滞在する。同年11月29日、母親と同じ名前である長女ジャンヌが誕生。 1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒[2]、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、結核性髄膜炎により死亡した。35歳没。 ジャンヌもモディリアーニの死の翌日、後を追って自宅のあるアパルトマンから飛び降り自殺した。この時、妊娠8ヶ月だったという。 ジャンヌの遺族の反対もあり、2人の遺骸は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬された。 ![]() 作風モディリアーニ絵画の代表作は、大部分が1916年から1919年の間に集中して制作されている。 ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり(風景は4点、静物はなし)、顔と首が異様に長いプロポーション[3]で目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。 肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴である[4]。 なお、初期には、ピカソの『青の時代』やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作している。 後年の評価モディリアーニの生涯はジャンヌを含めて半ば伝説化しており、映画化もされている。
エピソード
作品
上記以外の代表作
日本にある作品
脚注
参考資料
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