アルトゥール・ロジンスキ
アルトゥール・ロジンスキ(Artur Rodziński, 1892年1月1日 - 1958年11月27日)は、オーストリア帝国出身でアメリカ合衆国で活躍したポーランド人の指揮者[1][2][3][4]。 生涯オーストリア=ハンガリー帝国領スパラト(現クロアチア領スプリト)でポーランド人の両親のもとに生まれる。その後レンベルク(現ウクライナ領リヴィウ)で育ち、同地の大学で法学を学んだ。1914年に、帝国の軍医だった父親の転勤により、家族とともにウィーンに行き、引き続き法学を研究する。そのかたわらでウィーン音楽アカデミー(旧名ウィーン音楽院)に進学する。1916年に法学博士の学位を取得する。 第一次世界大戦後の1918年、当時ポーランド共和国領となっていたリヴィウに戻り、ヴェルディのオペラ『エルナーニ』を指揮して指揮者としてデビュー。その後は渡米し、1925年から1929年までレオポルド・ストコフスキー率いるフィラデルフィア管弦楽団のもとで勤める。 1929年からはカリフォルニア州に移り、4年間にわたってロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1933年から1943年まではクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任(1933年にアメリカ国籍を取得している)し、在任期間中に数度のオペラ上演にも携わった。 1936年にはザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。その際に知り合ったアルトゥーロ・トスカニーニの依頼で、NBC交響楽団の練習指揮者に就任する。トスカニーニ着任までの間にオーケストラをトスカニーニ好みに合うよう徹底的に鍛え上げた(ただし、訓練があまりにも峻烈すぎたためか、オーバーヒートを恐れたNBC側は、タイプの異なるピエール・モントゥーも訓練指揮者として招聘した)。 1943年には、ジョン・バルビローリの後任としてニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者となるが、間もなくニューヨーク・フィルに初めて設けられたポスト「音楽監督」に就任。その強大な権限をフルに行使して、コンサートマスターを含めた大量の楽員を「血の浄化」とばかりに大リストラを敢行した。リストラ本来の意味である「再構築」の面では多大な功績があったものの、芸術面での意見で経営陣と折り合いが悪く、1947年2月に音楽監督を解任される。 解任後、 間もなくシカゴ交響楽団に職を得て活動したが、『シカゴ・トリビューン』紙の名物辛口女性評論家クラウディア・キャシディの珍しい擁護にもかかわらず、赤字問題でシカゴの職を追われ、ヨーロッパに戻った。 ヨーロッパに戻った後は健康を害し、ウェストミンスターへのレコーディング活動のほかは目立った活動はあまり出来なくなっていた。また、1953年にはNHK交響楽団からの客演依頼もあったが、健康面の問題で実現しなかった。 1958年11月、シカゴ・リリック・オペラで『トリスタンとイゾルデ』の公演後、指揮している最中に倒れ、ボストンに移送されたが間もなく亡くなった。 息子のリチャードはヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの会長であったが、退職し、現在はチャイコフスキーコンクールの審査員長を務めている。 レコーディング主な録音ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のクラリネット首席であったレオポルド・ウラッハと共演したモーツァルトのクラリネット協奏曲の他、ウェストミンスターにかなりの数の録音を遺し、ドヴォルジャークの『新世界交響曲』などの国民楽派や、スクリャービンの『法悦の詩』など近代音楽を得意とした。 逸話
脚注 |
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