ほんのわずかな期間、キースは小売企業として知られるウールワースの管理職研修生として働いていたが、その後、ラ・ホーヤにあるスクリップス海洋研究所(The Scripps Institution of Oceanography)にて特別研究評議員として働くようになり、研究者の道に戻った。バークリー校にて海洋学と生物学を専攻し、1930年には博士号を取得した[17]。その後、全米研究評議会(The National Research Council)の特別研究評議員の資格を授与されたキースは、デンマークのコペンハーゲンにある動物生理学研究所にて、アウグスト・クローグのもとで2年間学んだ[17][18]。キースはこの2年間で魚の生理学について研究し、これを題材とした論文を多数寄稿している[18]。特別研究評議員としての仕事を終えたキースはすぐにケンブリッジ大学(キングス・カレッジ)に向かうことになるが、ハーヴァード大学で教鞭を執るにあたって休暇を取った。その後ケンブリッジに向かったキースは1936年に生理学の博士号を取得した[17]。
学術研究
初期の生理学研究
スクリップス海洋研究所で特別研究評議員として働いていたキースは、回帰分析を用いることで魚の体長から体重を推定していた。当時、生物統計学においてこの方法を採用したキースはそれの草分け的な存在であった[19]。アウグスト・クローグのもとで学んでいたキースは魚の生理学について研究し、魚が鰓(えら)を通して塩化化合物の排泄作用を制御し、それによって体内のナトリウムの量を調節する証拠を示した灌流(「かんりゅう」, 血管を経由して器官や組織に液体を注入する)の技術を開発した{{[18][20][21]。キースはこの灌流法を用いて、アドレナリンとバソプレシンが鰓液の流れ[22]と魚の体内における浸透圧の調節に及ぼす影響について研究した[23]。また、キースは機能が向上したケルダール法(Kjeldahl Method)の装置も考案した。クローグによる以前の設計を改良し、生物学の標本内部の窒素の含有量の迅速な測定を可能にした[24]。これはバッタ類の卵のタンパク質の含有量[25]や、ヒトにおける貧血といったさまざまな活量を測定するのに役立つことが分かっている[26]。ハーヴァード大学疲労研究所(The Harvard Fatigue Laboratory)にいたころ、キースはケンブリッジ大学の生理学者で自身の指導教官、ジョゼフ・バークロフト(Joseph Barcroft)が、テネリフェ島(Tenerife, スペイン領カナリア諸島にある島)にある最高峰・テイデ山(Pico del Teide)に登頂したこと、その後の彼の報告に感化された。キースはアンデス山脈への遠征についての草案をまとめ、この研究は高地で働いているチリ人の鉱山労働者に有意義であるかもしれない、と奨めた[17]。その許可を与えられたキースは1935年に一団を結成し、高血圧の人体への影響[15]、高地が人体に与える影響について研究した[16]。キースは9500フィート(約2900メートル)の高地で2~3ヶ月過ごし、その後、15000~20000フィート(4572~6096メートル)の高度で5週間過ごした[17]。キースは「ヒトは中高度には適応できたとしても、高度にどれだけうまく適応するか、を予測できる方法は見出せなかった」と記録している。これは圧力制御が実用化される前の時代の操縦士候補生にとっては障害となる可能性がある[27]。キースはこれらの研究を通して、概要で「環境変化に対する人間の生理学的適応は事前予測が可能な現象だ」と述べた。血圧や安静時の心拍数といった要因が「人間一人一人に見られる永劫不変の特質である」と考えられていた時代において、これは斬新な考え方であった[28][29]。
1936年、ミネソタ州ロチェスターにあるメイヨー財団で働かないか、との申し出を受けたキースは、ここで生理学の研究を続けた[27]。1年後、キースは「ここでの学術研究は、臨床的な『医療行為』の二の次であり、ブリッジ遊びに耽っている『知力の面で窮屈な環境』である」と言い残してメイヨー財団を去った[17]。メイヨー財団を去ったのち、1937年にミネソタ大学で生理学を教える[30]にあたり、同大学にて生理学衛生研究所(The Laboratory of Physiological Hygiene)を設立した。ヒトの生理学における初期の研究では、キースはアメリカ陸軍需品科(The Army Quartermaster Corps)での軍務に服した。最長2週間に亘り、携帯が可能で、必要なだけの摂取エネルギーを提供し、腐敗が起こりにくい配給食の開発に取り組んだ[31]。この配給食の開発には動揺が起こった。キースの同僚であるエルスワース・バスカーク(Elsworth Buskirk)は以下のように述べた。
アメリカが第二次世界大戦に突入するかと思われたとき、キースはシカゴにある需品食品容器研究所(The Quartermaster Food and Container Institute)に向かい、非常用糧食(Emergency Rations)について尋ねた。「そんなことは専門家に任せておけばいい」と言われた、との話だ。だが、キースはその忠告を無視してウィリアム・リグリー・ジュニア(William Wrigley Jr.)の事務所に向かい、非常用糧食の開発資金として10000ドルを獲得した。その後、キースはスナック菓子会社のクラッカー・ジャック社(Cracker Jack Company)に向かった。彼らは資金は提供してくれなかったが、防水性能のある小箱の構想をキースに教えた。その結果、密封状態のクラッカー・ジャック・ボックスに収納された配給食ができあがった[31]。
研究の主な焦点は3つあった。代謝における指針を3ヶ月間設定し、飢餓が志願兵の身体に及ぼす身体的および精神的影響について半年間研究し、異なる再補給の実施要綱が志願兵の身体に及ぼす身体的および精神的影響、これらを3ヶ月かけて研究した[28]。志願兵たちは、最初の3ヶ月で3200kcal分の食事を取り続け、次にウォーキングのような身体活動に従事して消費エネルギーを増やし、1日の摂取エネルギーを1800kcalに減らした。最後の3ヶ月間は再補給期間であり、志願兵たちは4つの班に分けられ、それぞれで摂取エネルギーが異なっていた[28]。実験の最終結果が公表される前に第二次世界大戦は終結したが、キースは自身が発見した事柄についてヨーロッパ中の国際救援機関に送付し[17]、全2巻、1385ページにおよぶ『ヒトの飢餓の生物学』(『The Biology of Human Starvation』)を1950年に出版した[28][31]。
七ヶ国共同研究
一見直感に反する事実が、食事療法と心血管疾患に対するキースの関心を幾分か刺激した。沢山食べる人は心臓病の罹患率が高く、戦後のヨーロッパでは食料の供給が減少したのが原因で心血管疾患の罹患率が急激に低下した、と見られた。キースはコレステロールと心血管疾患の相関関係について仮定し、ミネソタ州に住むビジネスマンについて研究を始めた(これは心血管疾患について初の前向き研究だった)[38]。1955年、ジュネーヴにある世界保健機関で開催された専門家会議の場で、キースは「食べ物に含まれる脂肪が心臓病の原因である」とする自身の仮説を直截に示した[39][40]。キースは心臓病による死亡と、ある6つの国での食事に含まれる脂肪の多さとの相関関係を提示した[41]。キースの理論的根拠と結論は、2人の疫学者から強く批判された[42]。キースの立てた仮説を補強するかと思われた最初の事例研究がナポリでの研究であった[43]。100歳以上の高齢者が南イタリアに集中している点に気付いたキースは、動物性脂肪(Animal Fat)の摂取量が少ない地中海食(Mediterranean Diet)は心臓病を予防し、それを多く含む食事は心臓病の原因となる、と仮定した。これはのちに「七ヶ国共同研究」(The Seven Countries Study)と呼ばれる長期観察研究を開始するのに役立った。これは「血清コレステロールが個人・集団を問わず、冠状動脈性心臓病(Coronary Heart Disease)による死亡率に強く関係していることを示す」と思われている[44][45]。キースは、「肉や牛乳に含まれる飽和脂肪酸は有害であり、植物油に含まれる不飽和脂肪酸には有益な効果がある」と結論付けた。キースによるこの言葉は、「飽和か不飽和かを問わず、全ての脂肪は有害である」と見なされるようになった1985年頃から20年秘匿され続けてきた。これは「肥満や癌を惹き起こす原因は食べ物に含まれる脂肪である」とする仮説によって推し進められてきた[46][出典無効]。根拠に基づく医療を推進するコクラン共同計画が2015年に発表したシステマティック・レビューとメタアナライシスでは、飽和脂肪酸の摂取量を減らすと心血管疾患を起こす危険性が低下する、としたうえで、「心血管疾患の危険のある人とそうでない人への心添えとして、飽和脂肪酸の摂取を半永久的に減らし、不飽和脂肪酸に置き換えて食べる必要がある」と結論付けた[5]。
七ヶ国共同研究の結果が公表された2年後の1968年、キースはイヴァン・フランツ(Ivan Frantz)とともに大規模な無作為化比較試験を実施した。介入群では、飽和脂肪酸が豊富な食べ物をリノール酸が豊富な(もともと多い状態、あるいは人工的に多くした)食べ物に置き換えた。無作為化および盲検実験は1973年に終了した。これらの実験結果は、会議や談話、あるいは博士論文の一部として、より小さく抜粋した形でずっと後になってから初めて公開された。処理されていない状態の資料と分析の結果は、この研究における主任研究員であるイヴァン・フランツの邸宅で2013年に発見された[50][51][52][53]。この研究では、食事における食べ物の摂取量の変化による明確な効果は示されていない。65歳以上の患者では、食事に含まれる脂肪を飽和脂肪酸に置き換えると、心血管疾患による死亡率は上昇した。2016年に発表された論文「Re-evaluation of the traditional diet-heart hypothesis: analysis of recovered data from Minnesota Coronary Experiment」(「従来の食事-心臓仮説の再評価:ミネソタ冠状動脈実験で得られた資料分析」では以下のように結論付けた。
1972年に発表されたある記事の中で、キースは共著者とともにアドルフ・ケトレー(Adolphe Quetelet)が考案した「体格指数」(Body Mass Index, BMI)を、肥満に関するさまざまな指標の中で最も優れたものである、と宣伝した[55]。その後、アメリカ国立衛生研究所(The National Institutes of Health)が1985年にこの指数を踏まえて肥満を定義するようになった[56][57]。
1961年3月、キースはアメリカのテレビ難組『To Tell The Truth』に『K-Ration』の開発者として出演した。番組に出演した4人の回答者のうちの2人は、本物のキースを見抜けなかった[65]。
キースは1963年に『Commander, Order of the Lion of Finland』(『フィンランド獅子勲章』)、1967年に『The McCollum Award from the American Society of Clinical Nutrition』(『アメリカ臨床栄養学会マルコム賞』)、2001年にはミネソタ大学名誉理学博士号の称号を授与された[66]。
2017年8月1日、『The True Health Initiative』(『本物の健康構想』)は、『Ancel Keys and the Seven Countries Study: An Evidence-based Response to Revisionist Histories』(『アンセル・キースと七ヶ国共同研究:歴史に対する、歴史再審論者による証拠に基づく返答』)と題した65ページに亘る白書を公開し、低炭水化物ダイエットの支持者が長年続けてきたこれらの主張の誤りを正した[69]。
アメリカ心臓病学会(The American College of Cardiology)とアメリカ心臓協会(The American Heart Association)は「心臓病を予防するために飽和脂肪酸(Saturated Fat)を一価不飽和脂肪酸(Monounsaturated Fat)および多価不飽和脂肪酸(Polyunsaturated Fat)に置き換えて食べるように」との指針を発表し、推奨している(2019年度)[73]。
著書
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参考
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