アンディ・マルテ
アンディ・マヌエル・マルテ(Andy Manuel Marte, 1983年10月21日 - 2017年1月22日)は、ドミニカ共和国・エルマナス・ミラバル州ビラ・タピア出身のプロ野球選手(三塁手)。右投右打。Marte姓は、一般的には「マーテイ(MAR-tay)」と読む。 経歴ブレーブス時代2000年9月12日にアトランタ・ブレーブスと契約を結んだ。 2005年6月7日に、インターリーグのロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦でメジャーデビューを果たした。7番・三塁で先発起用され、3打席に立ち、安打こそ放つ事が出来なかったものの、1打点を記録した。この年は24試合に出場し、打率.140、4打点という成績を残した。 インディアンス時代2005年12月8日にエドガー・レンテリアとのトレードでボストン・レッドソックスに移籍した[1]。 2006年1月27日にジョシュ・バード、ココ・クリスプ、デビッド・リスキーとのトレードでギレルモ・モタ、ケリー・ショパックと共にクリーブランド・インディアンスに移籍した[2]。3月1日にインディアンスと1年契約に合意。3月27日にAAA級バッファロー・バイソンズへ異動し、開幕をAAA級で迎えた。開幕後はAAA級で96試合に出場し、15本塁打46打点1盗塁、打率.261だった。7月28日にメジャーへ昇格[3]。この年は50試合に出場し、5本塁打23打点、打率.226だった。 2007年2月28日にインディアンスと1年契約に合意。開幕ロースター入りしたが、4月23日にハムストリングの故障で15日間の故障者リスト入りした[4]。5月19日に復帰した[5]が、5月28日にAAA級バッファローへ降格[6]。9月4日に再昇格した[7]。20試合に出場し、打率.193・1本塁打・8打点だった。 2008年は多くの出場機会を与えられたが、8月27日の試合まで打率.200さえ超えない状況が続き、シーズン通じていずれも自己最多の80試合に出場し、235打数を記録したにもかかわらず、打率.221・3本塁打・17打点という成績に終わった。 2009年2月19日にフアン・サラスの獲得に伴いDFAとなり[8]、2月23日に放出され[9]、2月25日にAAA級コロンバス・クリッパーズへ降格した。7月28日にインディアンスと再びメジャー契約を結んだ[10]。この年は、いずれも自己ベストを僅かに更新する打率.232・6本塁打・25打点という打撃成績を残したが、打率.250、出塁率.300のラインを上回る事はできず、最終的にレギュラーポジションを奪取するには至らなかった。 2010年は開幕ロースター入りし、自己最多の81試合に出場。打率.229・5本塁打・19打点だった。オフの11月5日に40人枠を外れ、AAA級コロンバスへ降格し[11]、11月6日にFAとなった。 パイレーツ傘下時代2010年12月1日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ[12]。 2011年はAAA級インディアナポリス・インディアンスで97試合に出場し、7本塁打37打点2盗塁、打率.202だった。オフの11月2日にFAとなった。 2012年は無所属のままシーズンを終えた。 独立リーグ時代2013年は、独立リーグであるアトランティックリーグのヨーク・レボリューションと契約を結んだ。 ここでは、96試合に出場。19本塁打74打点、打率.301だった。シーズン途中に、退団した。 エンゼルス傘下時代2013年8月5日にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとマイナー契約を結んだ。 ここでは、AAA級ソルトレイク・ビーズで26試合に出場し、6本塁打18打点、打率.362だった。オフの11月5日にFAとなった。 ダイヤモンドバックス時代2013年12月13日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。 2014年はAAA級リノ・エーシズで開幕を迎え、102試合に出場。13本塁打62打点1盗塁、打率.330と活躍し、7月31日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ[13]。同日のピッツバーグ・パイレーツ戦で6回裏に代打として4年ぶりの出場を果たし、ジェフ・ロックから勝ち越しの2点本塁打を放った[14]。昇格後は6試合に出場したが、1本塁打3打点、打率.188の成績にとどまり、8月7日にDFAとなった[15]。8月9日にAAA級リノへ降格した。 KTウィズ時代2014年11月15日、韓国プロ野球・KTウィズと契約した。 2015年より一軍戦に参加したKTウィズにとって、初の外国人野手となった。同年チーム最多の89打点を記録した。 2016年は故障で8月9日の出場が最後となった。 突然の死2017年1月22日、ドミニカ共和国で乗用車を運転中に交通事故で死亡した(なお同日にはカンザスシティ・ロイヤルズのヨーダノ・ベンチュラも同じく交通事故で亡くなっている。マルテが人生最後に出場したメジャーリーグ公式戦での相手先発がベンチュラだった。)[16]。 同年1月24日、生前最後に所属していたKTの本拠地・水原KTウィズパーク内には故人の遺影をかかげた献花台が設置された。 また、球団はマルテがつけていた背番号5を一年間欠番とした。その後は洪現彬が継承。 選手としての特徴打撃ではマイナーリーグ12年間で163本塁打を放ったパワーが売り。特に2002年は21本塁打、105打点、2004年は110試合で24本塁打とパワーを存分に発揮している。守備では、マイナー・メジャーともに守備率9割4分台と失策が多い。一方で、守備範囲は平均レベル以上で、通算DRS + 7であり、インディアンス移籍後に限れば、+ 15となっている[17]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia