イブン・ハジャル・アスカラーニーイブン・ハジャル・アスカラーニー(Ibn Ḥajar al-ʿAsqalānī, 全名:Shihābud-Dīn Abul-Faḍl Aḥmad ibn Nūrud-Dīn ʿAlī ibn Muḥammad ibn Ḥajar al-ʿAsqalānī al-Kināni, 1372年2月18日 - 1449年2月2日〈ヒジュラ暦773年 - 852年〉)[1] は、ムスリムのウラマー、ハディース伝承者(ムハッディス)。ハディース学(伝承学)の体系化に生涯を捧げた[2]。著作は、ハディース学、歴史学、伝記(イルム・リジャール)、聖典解釈学(タフスィール)、詩学、法学の分野の150タイトルに及び、ブハーリーの『真正集』に対する注釈書『ファトフル・バーリー』が最も重要な著作とされる。 情報源イブン・ハジャル・アスカラーニーの伝記的情報の情報源については、シャムスッディーン・サハーウィー(d. 1497)の Al-Jawahir wa al-Durar fi Tarjamat Shaykh al-Islam Ibn Hajar(シャイフル・イスラーム・イブン・ハジャル師の解説における宝石と真珠の書)という、イブン・ハジャルより少し後の時代のエジプトの学者の著作が、内容豊富で包括的であると評されている[2]。次節の記載内容のほとんどが当該 Jawahir の記載に基づいている[2]。 生涯1372年にフスタートで生まれる。父はシャーフィイー派のウラマーで詩人のヌールッディーン・アリーである。父方の家系はもともとアスカラーン(アシュケロン)からアレクサンドリアに移住した一族であり、父の代からアレクサンドリアからフスタートへ移住した[3]。イブン・ハジャルの両親は二人ともイブン・ハジャルが幼いころに亡くなり、イブン・ハジャルと妹のスィット・ラクブ Sitt ar-Rakb は父の一人目の妻の兄弟であるザキーッディーン・ハッルービー Zaki ad-Din al-Kharrubi の後見に託された。イブン・ハジャルは5歳のころからクルアーンの暗唱を始めたが、その手ほどきをしたのはハッルービーである。イブン・ハジャルは非常に優秀で、マルヤム章を1日で暗記し、9歳でクルアーン全章を暗唱できるようになったという[2]。 12歳のときにハッルービーに連れられてメッカ巡礼を果たした。イブン・ハジャルはこの時すでに、ラマダーン月のタラーウィーフ礼拝の導師を務めても問題ないと思われていた。1386年に後見人のハッルービーが亡くなると、エジプトのムハッディス、シャムスッディーン・イブン・カッターン Shams al-Dīn ibn al-Qattān にイブン・ハジャルの教育が任された。イブン・カッターンの後見によりイブン・ハジャルは、スィラージュッディーン・ブルキーニー Sirajud-Din al-Bulqini (d. 1404) とイブン・ムラッキン Ibn al-Mulaqqin (d. 1402) にシャーフィイー派法学(フィクフ)を、アブドゥッラヒーム・ブン・フサイン・イラーキー 'Abdur-Rahim ibn al-Husain al-'Iraqi (d. 1404) にハディースを学んだ。また、ダマスクスやエルサレムに遊学し、それらの町で、シャムスッディーン・カルカシャンディー Shamsud-Din al-Qalqashandi (d. 1407)、バドルッディーン・ バリースィー Badrud-Din al-Balisi (d. 1401)、ファーティマ・ビント・マンジャー・タヌーヒーヤ Fatima bint al-Manja at-Tanukhiyya (d. 1401) といった人々に諸学を学んだ。イブン・ハジャルは、メッカ、メディーナ、イエメンを訪れた後、エジプトに戻った。スユーティーによると、「イブン・ハジャルはザハビーに負けないくらい記憶力がよくなるように、ザムザムの井戸の水を飲み続けたところ、ついにはザハビーよりも記憶力がよくなったと言われている」という。 イブン・ハジャルは1397年、25歳のときに当時高名なムハッディサであったウンス・ハートゥーン Uns Khatun と結婚した。ウンス・ハートゥーンはアブドゥッラヒーム・イラーキーから修了証明(イジャーザ)を受け、他のウラマーを相手に公開講義を催したほどの学識ある女性である。前出のサハーウィーも彼女の講義を聴いた学生の一人である。 イブン・ハジャルは、その生涯において何度か、エジプトの裁判官(カーディー)の長(カーディル・クダート)に選ばれることとなった。 イブン・ハジャルは、ヒジュラ暦852年ズルヒッジャ月8日のイシャーゥ礼拝の時間の後に亡くなった(1449年2月2日)。79歳だった。カイロで行われた葬儀には5万人もの人が参列した。参列者にはマムルーク・スルターンのサイフッディーン・ジャクマク (1373–1453 CE) や、カイロ・カリフのムスタクフィー2世 (r. 1441–1451 CE) もいた。 著作![]() 150点ほどの著作がある。分野は、ハディース学、ハディース分類学(ムスタラフ・ハディース)、伝記(イルム・リジャール)、歴史、聖典解釈学(タフスィール)、詩学、シャーフィイー派の法学などである。
出典
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