初代グリムストン子爵 ウィリアム・グリムストン (英語 : William Grimston, 1st Viscount Grimston 、出生名ウィリアム・ラッキン (William Luckyn )、1684年 12月31日 洗礼 – 1756年 10月15日 )は、グレートブリテン王国 の政治家、アイルランド貴族 。
生涯
第3代準男爵サー・ウィリアム・ラッキン とメアリー・シェリントン(Mary Sherington 、メアリー・シェリントンの娘)の息子として生まれ[ 1] 、1684年12月31日に洗礼を受けた[ 2] 。1700年10月に遠戚にあたる第3代準男爵サー・サミュエル・グリムストン (英語版 ) が死去すると、ゴーハムベリー (英語版 ) など多くの領地を継承して、姓を「グリムストン」に改めた[ 1] 。グリムストンの遺産を継承する条件が「グリムストン姓を名乗る」のほかにも「グリムストンの孫娘アンに毎年1,000ポンド(最大30年まで)を支払う」があったため、グリムストンは遺産継承を躊躇したが、兄ハーボトル の説得を受けて遺産継承に踏み切った[ 2] 。
1710年イギリス総選挙 でセント・オールバンズ選挙区 (英語版 ) から出馬して当選、議会ではホイッグ党 側で投票し、1711年12月には「スペインなくして講和なし 」の動議に賛成票を投じた[ 2] 。1713年イギリス総選挙 ではマールバラ公爵夫人サラ・ジェニングス の支持もあって再選、1714年にリチャード・スティール (英語版 ) の庶民院 追放に反対票を投じた[ 2] 。1719年11月29日、アイルランド貴族 であるグリムストン子爵 とミーズ県 におけるダンボイン男爵 に叙され、1720年7月15日にアイルランド貴族院 議員に就任した[ 1] 。
その後、マールバラ公爵夫人との不和により1722年イギリス総選挙 でウィリアム・クレイトン に敗れたが、2人は和解して、グリムストンは1727年イギリス総選挙 で議員に返り咲いた[ 2] 。しかし、グリムストンがサラの孫にあたるジョン・スペンサー閣下 (英語版 ) への支持を拒否したため1734年イギリス総選挙 で再び敗北、1741年イギリス総選挙 では立候補しなかったがジェームズ・ウェスト (英語版 ) を支持、スペンサーのセント・オールバンズ選挙区における当選を妨害した[ 3] 。サラは報復として、1743年にセント・オールバンズ選挙区で行われた補欠選挙においてハンス・スタンリー (英語版 ) を支持、グリムストンの息子ジェームズ を落選させた[ 3] 。サラは1746年に死去、ジェームズは1754年イギリス総選挙 でようやく当選を果たした[ 3] 。
1737年2月4日に兄ハーボトルが死去すると、準男爵位を継承した[ 2] 。
1756年10月19日に死去、28日にセント・オールバンズの聖マイケル教会 (英語版 ) に埋葬された[ 1] 。息子ジェームズ が爵位を継承した[ 1] 。
劇作
1705年にThe Lawyer's Fortune, or Love in a Hollow Tree と題する劇作を出版したが、ジョナサン・スウィフト (1733年)やアレキサンダー・ポープ (1734年)など同時代の文人の笑い種になった[ 4] [ 5] 。グリムストンは後に劇作の第2版を出版したが、やがてその劇作を流通から消そうとして、出回っているコピーを全て購入することを試みた[ 5] 。
1736年にグリムストンの劇作が再出版されたが、これはグリムストン自身ではなく政敵のサラ・ジェニングス による出版であるとされる[ 5] 。
家族
1706年8月14日、ジーン・クック(Jean Cooke 、1765年3月12日没、ジェームズ・クックの娘[ 1] )と結婚、10男3女をもうけた[ 3] 。
サミュエル(1707年12月 – 1737年6月) - 1730年11月5日、メアリー・ラヴェル(Mary Lovell 、1764年9月24日没[ 6] 、ヘンリー・ラヴェルの娘)と結婚[ 7]
ジェームズ (1711年 – 1773年) - 第2代グリムストン子爵
ハーボトル(Harbottle )[ 7]
出典
^ a b c d e f Cokayne, George Edward , ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 118– 119.
^ a b c d e f Knights, Mark (2002). “GRIMSTON (formerly LUCKYN), William (1684-1756), of Gorhambury, Herts.” . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月21日閲覧 .
^ a b c d Sedgwick, Romney R. (1970). “GRIMSTON, William (c.1683-1756), of Gorhambury, nr. St. Albans, Herts.” . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月21日閲覧 .
^ Vian, Alsager Richard (1890). “Grimston, William Luckyn” . In Stephen, Leslie ; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co . pp. 260– 261.
^ a b c Carter, Philip (23 September 2004). “Grimston, William Luckyn, first Viscount Grimston”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/11643 . (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 433.
^ a b Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 2044.
外部リンク