ウィリアム・フィッツオズバーン (William FitzOsbern, 1011年 ごろ - 1071年 2月22日 )は、イングランド王 ウィリアム1世 (ノルマンディー公 ギヨーム2世)の親戚、側近であり、初期ノルマン朝 イングランド の有力貴族の一人。1067年にヘレフォード伯に叙せられ[ 注釈 1] 、イングランド貴族の最初の爵位の一つとなった。1066年のヘイスティングズの戦い においてウィリアム1世とともに戦った人物 (英語版 ) の一人として知られている。ワイト島 のカリスブルック城に居を構えたが、カリスブルック城 (英語版 ) はイングランドにウィリアムが建てた多くの城の一つである。
出自
ウィリアムは、ノルマンディー公 リシャール1世 の妃グンノール (英語版 ) の甥オズバーン・ド・クレポン (英語版 ) の息子である。オズバーンは従兄弟のノルマンディー公ロベール1世 の執事であった。ロベール1世が公領を幼い息子ギヨーム2世 に残したとき、オズバーンはギヨーム2世の後見人の一人となった。オズバーンは、ノルマンディー公リシャール1世の異父弟であるイヴリー伯ラウル (英語版 ) の娘エマと結婚した[ 2] 。母エマを通じて、ウィリアムはパシー (英語版 ) とブルトゥイユ (英語版 ) を含む、ノルマンディー中部の広大な領地を相続した。
1066年以前
ウィリアムは、おそらくはとこのノルマンディー公ギヨーム2世の宮廷で育てられ、父と同様にノルマンディー公の執事の一人となった[ 3] [ 注釈 2] 。ウィリアムはおそらく1030年頃にアドリース・ド・トニーと結婚した。2人は一緒にリール修道院 (英語版 ) (ラ・ヴィエイユ・リール)を創設し、後にコルメイユ修道院 (英語版 ) を創設した[ 1] 。また、ウィリアムはサン・エヴルール修道院 (英語版 ) も創設した[ 4] 。
ウィリアムはイングランド侵攻を最も早く、最も熱心に主張した一人であり、伝説によれば、リールボンヌ会議 (英語版 ) で、ノルマンディー貴族らの間で懐疑的であった者たちに、侵攻の実現可能性を納得させた。ウィリアムの弟オズバーン・フィッツオズベルン (英語版 ) はエドワード懺悔王 の従軍神父の一人で、バイユーのタペストリー の最初の場面でハロルド王 が訪れたサセックスのボシャム (英語版 ) の裕福な教会を所有しており、イングランドの状況に関する情報を伝えるのに絶好の立場にあった。弟オズバーンは後にエクセター司教 (英語版 ) となった。
1066年以降
ギヨーム2世がイングランド王ウィリアム1世となった後、ウィリアムはヘレフォード伯 (英語版 ) となり、グロスターシャー 、ヘレフォードシャー 、オックスフォードシャー 、ワイト島 に広大な領地を所有し、バークシャー 、ドーセット 、ウィルトシャー 、ウスターシャー の小規模な地域も統治した[ 1] 。1067年の夏、ウィリアム1世はノルマンディーに戻り、異母弟のバイユー司教オド (英語版 ) とヘレフォード伯ウィリアムに不在中のイングランドの統治を託した[ 1] 。ウィリアム1世は1068年にイングランドに戻り、ヘレフォード伯ウィリアムは南西イングランドの征服に同行した。ウィリアムは1068年5月に国王ウィリアム1世の聖霊降臨祭 の宮廷に出席し、その後ノルマンディーを訪れたが、そこで数か月病に伏した。
1069年2月あるいは3月に、ウィリアムは国王ウィリアム1世からヨーク の治安を監督するよう依頼され、 ギルバート・ド・ガントが新しい城の城主となったが、ウィリアムは1069年4月の国王の復活祭 の宮廷に出席するために南に戻り、その後ヨークに戻った。
「向こう見ずのエドリック(en:Eadric the Wild )」は、数名のウェールズ王 (最近までアングロ・サクソン 王の同盟者であった) の支援を得て、ウェスト・ミッドランズ でアングロ・サクソン人に対する抵抗運動を開始した。1069年に反乱は鎮圧され、詳細は不明であるがウィリアムがこれに大きく貢献した可能性が高い。この間、ウィリアムとその追随者たちはウェールズへと西進し、こうしてウェールズのグウェント王国 (英語版 ) に対するノルマン人の征服が始まった。
城の建設
カリスブルック城の守衛詰所
イングランドとウェールズに対するノルマン人の支配の一環として、ヘレフォード伯ウィリアムは主要なノルマン人の城の建設者の一人となった。ウィリアムが建設したとされる初期の城には、ワイト島のカリスブルック城 (英語版 ) 、南ウェールズのチェプストー城 (英語版 ) (ストリギル (英語版 ) )、ヘレフォードシャーのスノッドヒル城 (英語版 ) 、ウィグモア城 (英語版 ) 、クリフォード城 (英語版 ) 、グロスターシャーのバークレー城 (英語版 ) 、ウェールズのモンマス城 などがある。ウィリアムはヘレフォードとシュルーズベリー の町の要塞も建設あるいは改築した。
フランドルにおける混乱と死
1070年、フランドル で騒動が勃発した。ウィリアム1世の義兄フランドル伯 ボードゥアン6世 が亡くなり、領地と幼い息子たちが未亡人のエノー女伯 リシルド に託された。しかし亡き夫の弟であるロベール1世 がフランドルの支配権を主張した。リシルドは助けを求めて、ヘレフォード伯ウィリアムに結婚を申し出た。ウィリアムはノルマンディーに近いこの裕福な領地の伯爵にもなれるチャンスを逃すわけにはいかず、軍隊を率いて急いでそこへ向かった。しかし、1071年2月22日、カッセルの戦い でフランドル伯ロベール1世に敗れ、戦死した。
結婚と子女
ウィリアムは2度結婚した。最初にロジェ1世・ド・トニーの娘アドリース(アデライザ)と結婚し、4子をもうけた。
カッセルの戦い の少し前の1070年にエノー女伯 リシルド と結婚したとみられる。2人の間には1男が生まれたが、その息子はブルゴーニュ地方のサヴォワに連れて行かれた。
注釈
^ オックスフォード英国人名辞典 のフィッツオズバーンの項目では、ウィリアムがヘレフォード伯であったかどうか疑問視されている。「彼は、ほとんどの歴史書に出てくる『ヘレフォード伯』ではなかった。国王は確かに1067年に彼をイングランドの伯爵に任命したが、その称号は領土的なものではなく個人的なものであり、彼はヘレフォードシャーだけでなく、おそらくハロルド・ゴドウィンソン が伯爵であった南部諸州全体にも総督としての権限を持っていた。」[ 1]
^ ノルマンディーでは、ウィリアムは宮中伯の称号であるcomes palatiiを使用した。歴史家C. P. ルイスは、「19世紀および20世紀の大半の歴史家は、ウィリアムを『palatine earl』と呼んでいたが、これはノルマンディーで彼が使用した称号の不適切な訳語である。13世紀までイングランドには宮中伯領はなかった」と述べている[ 1] 。
脚注
^ a b c d e Lewis, C. P. (2004). "William fitz Osbern, earl". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/9620 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ Douglas, David (1944). “The Ancestors of William fitz Osbern”. The English Historical Review LIX (CCXXXIII): 69. doi :10.1093/ehr/LIX.CCXXXIII.62 .
^ Orderic Vital, Histoire de Normandie , tome 2, Ed. Charles Corlet, Caen 1826-Paris 2009, p. 10
^ Orderic Vital, Histoire de Normandie , tome 2, Ed. Charles Corlet, Caen 1826-Paris 2009, p. 27
^ Francis Palgrave, The History of Normandy and of England... !V:398ff.
^ Connected Blood Lines: Career of Ascelin Goël de Perceval , derived from Vita Dominæ Hildeburgis and other cited sources; accessed November 2017.
参考文献
Pierre Bauduin (2004年), “Autour de la dos d’Adelize de Tosny : mariage et contrôle du territoire en Normandie (xie-xiie siècles)”, Les pouvoirs locaux dans la France du centre et de l'ouest (VIIIe-XIe siècles) : 157-173, doi :10.4000/BOOKS.PUR.27493 , Wikidata Q104804987
F. Hockley (1980年), “William Fitz Osbern and the endowment of his abbey of Lyre”, Anglo-Norman Studies 3 : 96-105, ISSN 0954-9927 , Wikidata Q104805001
C. P. Lewis (1991年), “The early earls of Norman England”, Anglo-Norman Studies 13 : 207-223, ISSN 0954-9927 , Wikidata Q104805132
Nelson, Lynn (1966), The Normans in South Wales, 1070–1171 , University of Texas Press, オリジナル の10 April 2005時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20050410235306/https://www.ku.edu/carrie/texts/carrie_books/nelson/index.html (see especially pages 24–33 in chapter 2)
Rick Turner; John R. L. Allen; Nicola Coldstream; Chris Jones-Jenkins; Richard K. Morriss; Stephen Priestley (2004年9月), “The Great Tower, Chepstow Castle, Wales” (英語), Antiquaries Journal 84 : 223-317, doi :10.1017/S0003581500045844 , ISSN 0003-5815 , https://www.cambridge.org/core/journals/antiquaries-journal/article/abs/great-tower-chepstow-castle-wales/4700B6480BA5AD905779B2C04B1F52FE , Wikidata Q57652383
W. E. Wightmanna (1962年), “The Palatine Earldom of William fitz Osbern in Gloucestershire and Worcestershire (1066–1071)” (英語), The English Historical Review LXXVII (CCCII): 6-17, doi :10.1093/EHR/LXXVII.CCCII.6 , ISSN 0013-8266 , Wikidata Q104804966