ウェザー・リポート
ウェザー・リポート(Weather Report)は、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターの2人が中心になり、1970年に結成されたエレクトリック系サウンドをメインとしたアメリカのジャズ、フュージョン・グループである。 概略結成までジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターは1959年のメイナード・ファーガソン・ビッグ・バンドに2人とも在籍していたことがあり、その後、ジョー・ザヴィヌルはキャノンボール・アダレイのグループに加入した。ウェイン・ショーターは第2期マイルス・デイヴィス・クインテットに加し、1963年から1970年までマイルス・デイヴィス・グループに在籍、アコースティック・サウンド時代からエレクトリック・サウンド時代まで関与していた。一方のジョー・ザヴィヌルは1969年のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』で、マイルスがジャズに初めてエレクトリック・サウンドを導入した作品に「イン・ア・サイレント・ウェイ」という曲提供及びオルガン奏者で参加し、1970年のアルバム『ビッチェズ・ブリュー』では「ファラオズ・ダンス」という曲提供及びエレクトリック・ピアノでチック・コリアと共に参加するなど、ジャズに対して積極的にエレクトリック・サウンドが導入され始めた時期に、新しいジャズ・サウンドの構築などで貢献し、その時期にウェイン・ショーターとスタジオで再会することになった。 その2人が1970年に自分らのグループを結成する運びとなり、ドラマーにアルフォンス・ムゾーン、パーカッショニストにアイアート・モレイラとドン・ウン・ロマン、ベーシストにミロスラフ・ヴィトウスを迎えて結成された。初期の作品はマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』の延長線上にあり、それを意識したサウンドになっていた。デビュー・アルバムの『ウェザー・リポート』はアコースティックベースと生楽器が主体でシンセサイザーはまだ使用せず、後の作品に比べるとソフトなサウンドが聴ける作品で、『ダウン・ビート』誌では1971年の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を与えられるなど、注目を集めた作品になっていた。セカンド・アルバムの『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』からはシンセサイザーやサウンド・エフェクト類が多用されるようになった。そして、このアルバムの一部分には日本公演時のライブ演奏テイクが使われていて、後に2枚組の『ライヴ・イン・トーキョー』としても日本公演時の音源は発売されることとなった。 ファンク・グルーヴの導入アルバム『スウィートナイター』の時期から、ウェザー・リポートのサウンドにファンク・グルーヴの要素が採り入れられるようになり、ミロスラフ・ヴィトウスもアコースティックベースに加えてエレクトリックベースも頻繁に使うようになり、曲によってはインプロヴィゼーション・セクションになると曲中でエレクトリックベースに持ち替えるなど、1曲の中でも多彩なサウンドを要求されるようになってきた。ウェイン・ショーターは以前、自分のアルバム『ノン・ストップ・ホーム』の最後の曲で、当時チャック・マンジョーネ・グループに居てフレットレス・エレクトリックベースを弾いていたアルフォンソ・ジョンソンに参加してもらったことがあり、そのベース・サウンドをウェザー・リポートでも活かしたいと思い、彼をウェザー・リポートに呼び入れることにしたため、1974年のアルバム『ミステリアス・トラヴェラー』制作途中でベーシストがミロスラフ・ヴィトウスからアルフォンソ・ジョンソンへと交代することになり、新たなグルーヴとサウンドがもたらされた。 固定ドラマーの不在ファースト・アルバムの『ウェザー・リポート』から『ヘヴィ・ウェザー』までの8年間、ウェザー・リポートにとっては、ほぼ1年ごとにドラマーが変わってしまうなどウェザー・リポートに定着したドラマーを探すことが困難な時期でもあった。初代ドラマーのアルフォンス・ムゾーン、エリック・グラヴァット、グレッグ・エリコ、イシュマエル・ウィルバーン、スキップ・ハデン、ダリル・ブラウン、レオン・チャンクラー、チェスター・トンプソン、そしてアレックス・アクーニャなど、ジャコが1978年にピーター・アースキンを見つけてくるまでの間には目まぐるしくドラマーが交代する状況が続いていた。そしてピーター・アースキンとオマー・ハキムだけが3年以上在籍したドラマーとなるなど、ウェザー・リポートにとってはドラマーとの組み合わせが難しい一面もあった。 中期のウェザー・リポートウェザー・リポートがブレークする切っ掛けとなった1974年の『ミステリアス・トラヴェラー』の時期、アコースティック・ベースの代わりにエレクトリックベースがほぼ全曲で使用されるようになっていたが、ジョー・ザヴィヌルによるシンセサイザーも多用されるようになってきたため、宇宙的で幻想的なサウンドも目立つようになってきた。このアルバムではそういった新しいジャズへのアプローチが評価され、再び『ダウン・ビート』誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を得るなどの評価を得ていた。1975年のアルバム『テイル・スピニン (幻祭夜話)』の頃には、シンセサイザーの技術革新や新機種の登場などにより一層シンセサイザーの比重が高まっていたが、このアルバムでは他のアルバムにはないほど、ウェイン・ショーターのサックス・ソロがフィーチャーされたアルバムにもなっていて、このアルバムでも『ダウン・ビート』誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を得ることになった。 ジャコ・パストリアス加入ファンキーなベース・リフを弾いていたアルフォンソ・ジョンソンに代わり、1975年に自身のソロ・デビュー・アルバムを発表したばかりのジャコ・パストリアスが、翌1976年のアルバム『ブラック・マーケット』の制作後半から参加し、ジャコも「バーバリー・コースト」を提供した。また、アルバム全体でファンク・ジャム・セッションが繰り広げられていて、よりオリエンタルなメロディー・ラインへと変わっていった。その後、『ブラック・マーケット』ではパーカショニストとして参加していたチェスター・トンプソンに代わり、プエルトリコ出身のマノロ・バドレーナを迎え入れ、またアレックス・アクーニャがドラマーとなった。1976年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演なども含めて、ウェザー・リポートは頂点の時期を迎え始めることとなった。1977年のアルバム『ヘヴィ・ウェザー』ではジャコのベース・ソロとドラミングが炸裂する「ティーン・タウン」が収録され、一躍ベーシストからの注目を集めることとなり、「バードランド」ではベースによるピッキング・ハーモニクスなどの斬新な手法でリフを弾くなど、ポップなサウンドはジャズ・ファン以外にもフュージョン・ファンへも層を広げ、支持されるようになっていった。『ヘヴィ・ウェザー』発売後、ドラマー及びパーカショニストとして在籍していた アレックス・アクーニャとパーカショニストのマノロ・バドレナがグループを離れてしまい、一時期メンバーは過去最少の3人になってしまう。そして1978年のアルバム『ミスター・ゴーン』では、まだ正式メンバーになる前のピーター・アースキンと、トニー・ウィリアムス、スティーヴ・ガッドらの参加で、当時のフュージョン界でのトップ・ドラマー参加などでも話題を呼び、アルバム・サウンドの方はジョー・ザヴィヌル色が強いシンセ・サウンドとシークエンスが多用されたものになったが、ジャコは「パンク・ジャズ」という曲を提供し、コンポーザーとしての存在感も徐々に示すようになっていた。 ワールド・ツアーピーター・アースキンが正式加入して4人編成となったウェザー・リポートは、この時期になると世界各国へのツアーに出るようになり数多くのライブをこなすグループになっていた。1979年には、アメリカ公演などから厳選されたテイクが2枚組LPとなったアルバム『8:30』に収められ、LPの4面目には最新のスタジオ録音が入っていて、ライブ盤とスタジオ盤での差が余りないアンサンブルとなっていった。 ハバナ・ジャム1979年の3月2日から3月4日にわたってキューバで行われたハバナ・ジャム (Havana Jam) に出演することになり、この大規模なイベントにアメリカ側からは、スティーヴン・スティルス、CBS ジャズ・オールスターズ (CBS Jazz All-Stars)、トリオ・オブ・ドゥーム、ファニア・オールスターズ、ビリー・スワン (Billy Swan)、ボニー・ブラムレット (Bonnie Bramlett)、マイク・フィネガン (Mike Finnegan)、クリス・クリストファーソン、リタ・クーリッジ、ビリー・ジョエルらが参加し、キューバ側からも、イラケレ、パッチョ・アロンソ (Pacho Alonso)、タータ・ギネス (Tata Güines)、オルケスタ・アラゴン (Orquesta Aragón)などが参加していて、共産圏で行われた初の共同イベントとして歴史的な物となった。この模様はカステラノス (Ernesto Juan Castellanos) によって『ハバナ・ジャム '79 (Havana Jam '79)』として記録されている。そして、ウェザー・リポートの黄金期と言われている1976年から1981年の間は世界各地の大規模なジャズ・フェスティバルへ参加することが多くなり、ウェザー・リポートが出演するとなると観客動員数も鰻登りになる人気を誇っていた。 ナイト・パッセージアルバム『ナイト・パッセージ』発売前年の1981年ワールド・ツアーではパーカショニストにロバート・トーマス・ジュニアが参加して再び5人編成になり、グループとしてもメンバー各々の実力が均衡してきたため、脂がのりきった状態になっていた。1981年のツアーでは未発売の曲が大半を占めていて、それらの曲は次作アルバム収録曲のリハーサルも兼ねていた。1982年、『ナイト・パッセージ』の制作は、ロサンジェルスにあったA&Mスタジオ の体育館のように巨大なルーム・サイズを持つAスタジオで行われ、クインシー・ジョーンズなどの音楽業界人も含む沢山のオーディエンスが居る状態でスタジオ・ライブ・レコーディングされたため、1981年のツアーは未発表曲のお披露目的意味合いもあったが、「マダガスカル」だけは、大阪フェスティバル・ホールで収録されたコンサート音源がそのままアルバムにも採用されることになった。 黄金期 - 解散までアルバム『ウェザー・リポート'81』が発売される前年の1981年暮れには、黄金期を築いたメンバーだったジャコ・パストリアスが自己のバンド結成のために脱退することになり、それに続きピーター・アースキンもジャコのバンド加入のため脱退してしまった。ジャコは自分のバンド以外にもジョニ・ミッチェルのアルバムやツアーをこなすなど、多方面で活躍するようにもなっていた。そして、ウェザー・リポートは新たなリズムセクションとしてオマー・ハキムとヴィクター・ベイリーを迎えて活動を続けることになった。そのころから世界的にはジャズ/フュージョンに対して1970年代後半のような盛り上がりを見せなくなってきており、混迷する時代へと入っていった時期でもあった。当然、ウェザー・リポートの音楽性もそれに応じて様々に変化し、ゲスト・ミュージシャンに「バードランド」を自分たちのアルバムでもカバーしていたマンハッタン・トランスファーを招くなど、よりポップな路線も見せ始め、新たなリズム・セクションによりジャズ面よりもフュージョン面が押し出たサウンドになっていった。そして、1986年、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターが、新たなサウンドを求めてそれぞれのバンドを作ることとなり、ウェザー・リポートは解散することとなった。 レコーディング・メンバー
主なゲスト・ミュージシャン
コンサートツアー時のメンバー変遷![]() 画像左から Wayne Shorter, Peter Erskine, Robert Thomas Jr., Jaco Pastorius
ディスコグラフィアルバム
ライブ・アルバム
コンピレーション・アルバム
ビデオグラフィ
脚注出典
参考文献
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia