ウジェーヌ・アジェジャン=ウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget、 1857年2月12日 - 1927年8月4日)は、フランスの写真家。フランス南西部・ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏のジロンド県にあるボルドーの近くの町リブルヌに生まれ、パリ14区にて死去。 20世紀前後のパリの建築物、室内家具など失われる古きパリのイメージを撮影。 ![]() 生涯成人するまで馬車の大工修理工の長男として生まれた。5、6歳のとき孤児となり叔父に引き取られる。両親が若くして亡くなったため、アジュが5、6歳のとき叔父に引きとられる。おじの都合により彼の出身地であるパリに移り住む。叔父はアジェを司祭職に就かせようと考え、アジェを神学校に通わせ、アジェはギリシア語とラテン語を学んだ。しかし、アジェは神学校を中退し、商船の給仕となってヨーロッパ各地、北アフリカ、南米まで旅する。安定した道を捨てて、下層階級の職業である給仕となった理由はさだかでない。しかし、給仕の職に満足することはできずパリにもどる。 俳優生活次にアジェが選んだのは俳優になることだった。 1878年、アジェは音楽家や俳優を養成する学校のパリのフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)を受験する。しかし失敗。翌年、合格する。兵役のために演劇学校も中退する。俳優になりたいという希望も挫折する。24歳の頃、地方回りの役者になる。 1886年に生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォス(本名ヴァランティーヌ・コンパニュン)に出会う。彼女には8歳となる息子ヴァランタン・コンパニュンがいた。 1886年より二人は一緒に旅回りを続け、グルノーブル、ディジョン、パリ郊外で公演をする。これらの詳細はヴァランティーヌの記録から知ることができる。しかし、アジェの名前は記録にはない。 1897年~1902年の間、ヴァランティーヌはラ・ロッシュで公演をするが、アジェは1898年に劇団を解雇され一人パリに戻る。 パリに戻ったアジェは画家になろうとする。41歳である。アジェが描いていたのは風景画である。印象派風の木を描いた油絵画が残されている[5]。しばらくして画家への道を断念する。ただ、画家になることを諦めた後も絵を描いている。 第1次世界大戦までアジェはこの少し前頃から写真を撮り始めた。18x24センチのガラス乾板を使う木製の暗箱カメラで、レンズボードを上下にあおれるものである。当時、パリの有名な建築物や名所を撮って観光客に売る写真家が多くいたが、そのようなものを撮ることはなかった。アジェが最初に手がけたシリーズは路上で商いをする人々の写真である。 パリに最初に住んだ場所はわからない。1899年10月に、死ぬまで住むことになるモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街17番地乙に引越した。 モンパルナスには多くの芸術家が住んでいた。アジェはアパートのドアに手書きの「芸術家の資料(documents pour artistes)」という看板を掲げ、芸術家に写真を売る生活を始めた。画家に成ろうとしていたとき、多くの芸術家が作品の資料となる写真を求めていることを知ったためである。建物を正確に撮ろうとすると、人や馬車が邪魔になるため、初期の路上の物売りシリーズを除いては朝に撮っていた。 第1次世界大戦以降
何を残したかアジェは41歳のときから30年間に約8000枚の写真を残した。アジェは自分の気持ちの赴くまま写真を撮ったのではない。パリ市歴史図書館などの購入者がおり、テーマを決めて計画的に撮影した。アジェ自身が作成したアルバムは次の7つがある。
死後の評価
彼の撮影した作品の多くは、死後発掘公表された。 日本語の主要参考文献
写真集など
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