ウラカワチェリー
ウラカワチェリー(欧字名:Urakawa Cherry、1972年5月3日 - 1979年2月16日)は、日本の競走馬。主な勝ち鞍に1978年の北九州記念、阪神牝馬特別。 経歴父・シンザンは戦後初のクラシック三冠馬。母・セカイイチオーの母系をたどると、母の父・ティエポロはタニノチカラ・タニノムーティエ・ロングエースを送り出すなど、ブルードメアサイアーとして活躍。母の父の父であるブルーピーターはフェアウェイ系の種牡馬で、競走馬時代には2000ギニー・ダービー・エクリプスステークスを制した。ブルーピーターもティエポロと同様にブルードメアサイアーとして能力を発揮し、イギリスのリーディングブルードメアサイアーに輝いたこともあった。 管理調教師の栗田勝は、騎手時代にシンザンの主戦騎手を務めた。 戦績1974年7月の札幌でデビューし、2戦目には1番人気に応えて6馬身差の快勝。重賞初挑戦の函館3歳Sでは2着に入り、その後は10月の紅葉杯も2着。4戦して1着1回・2着3回と連対率10割で迎えた阪神3歳Sは5番人気に推されたが、初めての着外となる8着でシーズンを終える。 1975年は始動戦の紅梅賞で15着と大敗し、飛梅賞(600万下)では4着と掲示板に入って立て直すが、阪神4歳牝馬特別(8着)・桜花賞(14着)では共にテスコガビーの圧勝を許した。鞍上を安田伊佐夫から福永洋一にバトンタッチすると、5月のあずさ賞(600万下)で人気に応えて2勝目を挙げる。夏は北海道シリーズに参戦し、道新杯(800万下)で7頭中5番人気の2着と好走。勝ったロードカップは最下位人気の7番人気でレコード勝ちし、波乱の結末となった。その後はアカシヤS(800万下)・巴賞と連勝し、函館記念では2番人気でツキサムホマレの2着に入った。 1975年秋は休養に入り、1976年2月に復帰。鞍上を福永から安田に再びバトンタッチし、3月の関門橋Sでは2着に入る。それ以降は6戦連続着外と苦戦を強いられることとなり、3年連続参戦となった夏の北海道シリーズでも全く良いところがなく、札幌日経賞では後に札幌記念でトウショウボーイ・クライムカイザーを敗るグレートセイカンに大差の11着、短距離Sでは同期の2冠馬・カブラヤオーにこれまた大差の7着であった。12月のセントウルS(1300万下)[1]でホクトボーイの3着に入り、最下位人気で穴を開けた。 1977年は始動戦の北山特別(1300万下)で2年ぶりの勝利を飾り、連敗を11で止めた。その後は3戦連続2桁着順を記録するなど、再び苦戦が続く。1978年に松籟S(1000万下)で6勝目を挙げると、5月の短距離特別(1000万下)で2着に入り、6月の木曽川特別(1000万下)で7勝目を飾る。夏は初めて小倉開催に参戦し、北九州記念で重賞初制覇。 12月の阪神牝馬特別で重賞2勝目を挙げ、安田が同日の愛知杯でハシコトブキに乗るため騎乗した桜井誠二[2]は自身唯一の重賞勝利となった。 桜井は先頭でゴールを通過して、興奮冷めやらぬままに検量室前の脱鞍所へ引き上げると、満面の笑みで出迎えた栗田の喜びように驚いた[3]。発走前に調教師席のテレビで愛知杯も見ていた栗田は「さっきハシコトブキも勝ったんや。阪神も中京もシンザン産駒や」と興奮し[4]、後に桜井もウラカワチェリーが生涯忘れがたい「思い出の馬」となり[2]、「勝ったことも嬉しかったけれど、栗田先生がものすごく喜んでくれたことが、今はとにかく懐かしい」と述懐している[5]。 1979年は1月の中日新聞杯から始動したが、2月の京都オープン7着後、2月16日の調教中に心不全で死去[5]。 競走成績
脚注 |
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