エイサ・ブレイナード
アサヘル・エイサ・ブレイナード(Asahel "Asa" Brainard、1839年[1] (月日不詳) - 1888年12月29日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州オールバニ出身のプロ野球選手(投手)。右投。 ニックネームは"Count"。切り札選手を意味する「エース」の語源と言われる選手。Asahelと表記するのが一般的となっているが、アメリカ国勢調査やブレイナードの墓には「Asel(アセル)」と記されている[1]。 経歴1860年に当時ブルックリンの強豪チームだったエクセルシオール・クラブに加入。加入当初はチームメイトのジム・クレイトンが投手をつとめることが多く、ブレイナードは専ら外野手や二塁手として試合に出ていたが、1862年のクレイトンの突然の死に伴い、クラブの投手をブレイナードが務めるようになった。1866年の成績は20戦して13勝であった。1867年にワシントンのナショナル・クラブのアメリカ西部巡業に同行したのち、ブレイナードはシンシナティに移る。 1868年にシンシナティ・レッドストッキングスに加入し、チームがプロ化した1869年には年俸1,200ドルの契約を結んでプロの選手となった。レッドストッキングスは他にプロチームがなかったためアマチュアチームを相手に全米各地を転戦した。チームは1869年に全69試合(非公式)を戦い、ブレイナードは65勝を上げた(勝利数には諸説あり)。この活躍から、良い投手を「エイサのようだ」と形容されるようになり、いつしかスポーツなどで切り札となる人物を、ブレイナードのニックネーム「エイサ(Asa)」からもじって「エース(Ace)」と呼ばれるようになったとする説がある[2]。 その後、1871年にプロ野球リーグ・ナショナル・アソシエーションが発足。ブレイナードはナショナル・アソシエーションで、1871年から引退する1874年までの4年間に、24勝53敗、防御率4.84、投球回数699.2回の成績を収めた。当時としては珍しく30代になってもプレーし続けていた。1888年12月29日に、肺炎のためコロラド州デンバーにて死去。 詳細情報年度別投手成績※1871年以降
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