エディ・ルジャーン
エディ・ルジャーン(Eddy Lejeune、1961年4月4日 - )は、ベルギーの元トライアル選手。1982年から1984年にかけてトライアル世界選手権3連覇を達成した。またベルギー全国トライアル選手権を7度にわたって制した[1]。 来歴若き日のエディは1974年、1977年、1978年のベルギートライアルチャンピオンであった兄ジャン・マリーのあとを追った。ホンダの学生ライダーから始まり、1979年には16歳という若さで本田技研工業と契約を結んだ[2]。1980年に初のベルギータイトルを獲得、トライアル世界選手権でも総合4位となった。ホームグラウンドのベルギー戦では初の世界選手権勝利を飾った。1981年もベルギータイトルとトライアル世界選手権4位をものにした。1982年のシーズンには世界選手権で9勝をあげた他にも2回表彰台に登り総合1位となり、ベルギーのタイトルも保持した[1]。1983年と1984年のシーズンも、世界及びベルギー国内でホンダのタイトルを防衛した[1]。1985年はファンティックのライダー、ティエリー・ミショーとのタイトル争いとなった。ルジャーンはベルギー戦とオーストリア戦で勝利を収め、それ以外でも10戦中8戦で表彰台に登ったが、ミショーに及ばず総合2位でシーズンを終えた。1986年のシーズンは、ミショーだけではなくホンダのチームメイトであるスティーヴ・ソーンダースも交えた三つ巴の長い戦いとなった。勝利と表彰台のほぼ全てを彼らで独占し合った後、フィンランドの最終戦に全てが持ち越された。ルジャーンにとっては、ライバルのミショーとソーンダースが1位と3位をもぎ取り、選手権総合1位と2位に輝く中13位でフィニッシュするという辛い日となった[2]。1987年にははかばかしい結果を残せず、シーズンの終わりにホンダは彼との契約を更改しない決定を下した。ブルタコの創設者、パコ・ブルトの息子イグナシオ・ブルトは新たにメルリン・トライアルバイクの生産を押し進めており、1988年シーズンにいち早くルジャーンと契約した[3]。ルジャーンはルクセンブルクとベルギーで表彰台に登り、選手権総合6位という上々の結果を残したが、メルリンはシーズンの終わりに倒産してしまう。1989年・1990年のシーズンはモンテッサにライダーとして(1990年末に引退するまで)所属した。1998年、大きな交通事故に遭い、現在まで残る頭部外傷を負った[2]。エディ、ジャン・マリー、エリックのルジャーン3兄弟は2011年のスコティッシュ6日間トライアル(Scottish Six Days Trial: SSDT)にそろって出場した[4]。 トライアル世界選手権戦績
脚注
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