エトワール凱旋門
エトワール凱旋門(エトワールがいせんもん、フランス語: Arc de triomphe de l'Étoile)は、フランス・パリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある戦勝記念碑である。 概要パリはもとよりフランス全土の象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。シャンゼリゼ通りの地下入口から地下道を通って近づける。料金を払い、らせん階段を上まで登ることもできる。エレベーターもあり、基本的に体の不自由な人のために使われている。 ![]() この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りをはじめとして12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えることから、この広場は「星の広場(エトワール広場)Place de l'Étoile」と呼ばれていた。そのため、「エトワール広場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l'Étoile」との正式名称がある。なお、この名称は後年に「シャルル・ド・ゴール広場 Place Charles-de-Gaulle」と変更されている。 「凱旋門 Arc de Triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。そのため、凱旋門はパリだけでもカルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門など多数が存在する。 シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」(La Grande Arche、または Arche de la Défense)があるが、これは戦勝記念碑ではないことから正式名称に "triomphe" が付いておらず、すなわち「凱旋門」ではない。しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸(パリの歴史軸)上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目の「門(arc, arche)」であると認識されているため、フランスの国の標語である「Liberté, Égalité, Fraternité」(自由、平等、友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternité」(直訳 - 友愛の大アーチ)との正式名称を持つ。 古代ギリシア、古代ローマを模範とする新古典主義建築の代表作である。 沿革![]() エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの7月王政時代、1836年に完成した[1]。建設中には、様々な政治的変遷とプロジェクトを率いる建築家の権力闘争の影響を受けた。1830年7月、数日間のうちに起こった革命(フランス7月革命)の後に王位に就いたルイ・フィリップは、革命軍に軍隊の過去の歴史を思い出させたうえ、帝政支持者への配慮に努めた。記念建造物が捧げられる対象は変更され、崇拝の目的は革命軍と帝政の軍隊の栄光を称えるものとなった。 なお、ナポレオンは凱旋門が完成する前に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時だった。その後、1885年のヴィクトル・ユーゴー国葬における遺体安置、あるいは1919年7月14日の第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレードなど、国家の歴史的な出来事を執り行う場所として機能した。また、それを逆手にとって第二次世界大戦時にパリを占領したドイツ国防軍は、1940年6月16日に凱旋門下で軍観兵式を行った[2]。 ![]() エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓や多くの祈念のプレートが埋め込まれ、フランスのために亡くなった兵士たちを祈念している。[3]
日本における認識日本では、「凱旋門」が「エトワール凱旋門」を示す固有名詞として扱われがちであるため、実際は凱旋門ではない超高層ビルのグランダルシュまでが「新凱旋門」と称されることが多い。 住所表記
ギャラリー各部分の彫刻
戦いの一覧詳細は「エトワール凱旋門に刻まれた戦いの一覧」を参照。
名前の一覧詳細は「エトワール凱旋門に名前を記された人物の一覧」を参照。
タイムライン
パノラマ
関連作品
脚注出典
関連項目
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia