エムデン (Emden ) は[ 注釈 2] 、ヴァイマル共和国軍 が建造した巡洋艦 で、同型艦はない。
本艦は、第一次世界大戦 後のドイツ (ヴァイマル共和政 )で最初に建造された軽巡洋艦 であり[ 注釈 3] 、エムデン の名を持つ3隻目の艦である[ 注釈 4] 。
概要
本艦は自国の沿岸警備のために建造された軽巡洋艦である。実際には練習艦 として運用され、世界各地を訪問した[ 9] 。基本的な設計はドイツ帝国海軍 時代のケルン級軽巡洋艦 に採り[ 注釈 5] 、戦訓に基づいた改正が行われた。船体の建造には従来のリベット留めではなく、電気溶接を多用して軽量化している[ 注釈 6] 。列強各国の軽巡洋艦と比較して特筆すべき性能はなかったが、世界大戦後のドイツ海軍技術発達の起点となったという意味で、意義深い軍艦である。
艦形
本艦の模型。
本型の船体形状は平甲板型船体 となっており、艦首形状は前型のケルン級軽巡と同じクリッパー型艦首を備える。排水量は5,000トン台となり大型化された。
連合国監視委員会の干渉により、本艦の武装には制限が加えられていた。
艦の構造を前部から記述すると、全くシア(反り返り)の無い艦首甲板上に主砲の「15.2cm(45口径)速射砲 」を防盾の付いた単装砲架で1基が配置され、その後方から上部構造物が始まり、波避けの後に2番主砲が1基配置された。
司令塔を下部に組み込んだ操舵艦橋 の背後には、見張り所を持つ単脚式の前部マスト が立つ。船体中央部に2本煙突 が立つ。その周囲には艦載艇 置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷2組で計4組により運用された。元甲板上の下の主甲板上に50cm連装魚雷発射管が片舷1基ずつ計2基が配置された。2番煙突の後方の甲板上に45口径8.8cm高角砲 が2基配置された。
左右の舷側甲板上に15.2cm速射砲が防盾の付いた単装砲架で片舷2基ずつが配置された。後部甲板上に簡素な後部マストと後部見張所が設けられ、後向きに15.2cm速射砲が背負い式に2基が配置された。
後述する本艦と古鷹型重巡洋艦 「加古 」との交換見学会が開かれた際、「エムデン」の図面の一部が日本側に提供された。
艦歴
第一次世界大戦 後に成立したヴァイマル共和政 において、ヴァイマル共和国軍 が建造した軽巡洋艦である。「エムデン」は旧式巡洋艦 ニオベ (SMS Niobe ) の代艦として、ヴィルヘルムスハーフェン工廠で建造される[ 注釈 7] 。1921年(大正10年)12月8日に起工され、1925年(大正14年)1月7日 に進水し、10月25日に就役した。ドイツ共和国海軍 (英語版 、ドイツ語版 ) が運用した。初代艦長はリヒャルド・フェルスター 大佐であった。
第二次世界大戦 前は主に練習艦として使用され、1926年から1939年の間、大西洋、太平洋、地中海を幾度も航海した。1926年(大正15年)11月中旬にドイツ を出発、東回り で遠洋航海が始まる[ 9] 。1927年(昭和2年)5月、フェルスター艦長の指揮下で大日本帝国 の各地を訪問した[ 16] [ 17] [ 注釈 8] 。
5月24日から30日 まで横浜港 に滞在する[ 23] 。
26日 にはエムデン乗組員が横須賀 を訪問し[ 17] 、戦艦長門 、重巡古鷹 、記念艦 三笠 を見学した[ 24] [ 注釈 9] 。
日本側関係者の観察では「三笠ガ最感動ヲ與ヘタリ」であったという[ 24] 。また岡田啓介 海軍大臣邸宅で開催されたエムデン乗組員歓迎会に鈴木貫太郎 軍令部 総長が出席するなど[ 26] 、日本側は様々な歓待をおこなった[ 17] [ 27] 。後日、フェルスター艦長は海軍大将に昇進したあと引退し、ベルリン日本研究所 や日独協会 の責任者を務めている[ 28] 。
1930年代に高角砲や機銃が増設された。1933年から34年に大規模改装をおこない、4基の石炭専燃缶を重油専燃缶に換装、魚雷装備の強化、マストや煙突の改修をおこなった。また、第二次世界大戦中には15cm砲を45口径砲から48口径C36単装砲 へ換装、8.8cm高角砲を10.5cm高角砲へ換装、対空火器を増設するなどの改装が行われた。
1931年 (昭和6年)6月下旬、「エムデン」は二度目の訪日をはたし、日本海軍関係者はドイツの造船技術に注目した[ 注釈 10] 。
そこで「エムデン」と同時期に完成した古鷹型重巡洋艦 「加古 」[ 注釈 11] との交換見学会が開かれた[ 注釈 12] 。
7月2日、海軍関係者10名は横浜港 で「エムデン」に乗艦する[ 注釈 13] 。球磨型軽巡洋艦 と同規模であるが余裕のある構造であり、防御に重点を置いているのではと推測している[ 34] 。また「エムデン」は古鷹型の同時期竣工にもかかわらず、当時の日本では使われていなかった電気溶接 を多用している事にも触れている[ 注釈 14] 。日本側に『羨望の極み』と云わしめた点もあった[ 注釈 15] 。
ナチス の権力掌握後 、再軍備宣言 によりドイツ国防軍 (Wehrmacht ) が成立、共和国海軍はドイツ海軍 (Kriegsmarine ) となった。
1936年 (昭和11年)10月10日、ドイツを出発、地中海 を経由してインド洋 に進出し、東回りで遠洋航海に出発する[ 37] 。
1937年 (昭和12年)1月にも再び来日(1月18日 )[ 38] 。同年1月21日 、昭和天皇 は宮城 鳳凰の間において[ 39] 、当時のエムデン艦長ワルター・ローマン 大佐および特命全権大使ヘルベルト・フォン ディルクセン 等と謁見した[ 40] [ 41] 。22日 、エムデン艦長や士官および生徒は横須賀港 に停泊中の戦艦 山城 を訪問[ 42] 、艦内や相撲 (武技実演)を見学した[ 43] 。
第二次世界大戦
「エムデン」は1939年 (昭和14年)9月3日に機雷敷設任務を終え、機雷を積むためヴィルヘルムスハーフェン に戻っていたところ[ 44] 、9月4日にイギリス軍のブリストル ブレニム 爆撃機10機が来襲した[ 45] 。4機が「エムデン」に対して爆弾を投下したが命中はしなかった[ 44] 。しかし、被弾した爆撃機1機が「エムデン」に衝突した[ 44] 。さらに、爆弾の破片でも被害が生じ、29名が死亡し、30名が負傷した[ 44] 。
1940年(昭和15年)4月のノルウェー侵攻作戦 (ヴェーザー演習作戦 )にはオスロ 攻撃部隊として参加、クメッツ 提督指揮下の同部隊は重巡ブリュッヒャー (DKM, Blücher ) が沈没、ポケット戦艦 (重巡)リュッツオウ (DKM, Lützow ) が潜水艦の雷撃で大破するなど、大損害を受けた(オスロフィヨルドの戦い )。その後はバルト海 で主に練習艦として使われた。1944年(昭和19年)には対空兵装を強化した。1945年(昭和20年)1月、東プロイセン のケーニヒスベルク にソ連軍 が迫った。同市のシーシャウ・ウェルケ で入渠中だったエムデンは、ドイツ北部やデンマーク へのドイツ軍兵士や市民の避難を手伝った。またタンネンブルク記念公園 に埋葬されていたパウル・フォン・ヒンデンブルク 大統領と妻ゲルトルード・フォン・ヒンデンブルグ (英語版 、ドイツ語版 ) の柩の西ドイツ移送にも協力した。
同年4月10日キール 軍港で被爆し、14日座礁、26日に除籍。5月3日自沈 した。
脚注
注釈
^ 1927年5月の日本訪問時は候補生を含めて526名[ 1] 。
^ 巡洋艦エムデン(一九二五年七月七日進水) 基準排水量五六〇〇噸、時速二九節。一九二五年十月十五日現役に就く。現在は前方の主檣は短小されてゐる。
^ 巡洋艦 "エムデン Emden " 主要目{排水量5,400噸 速力29節 備砲15糎砲8門 8.8糎高角砲3門 魚雷發射管(50糎)4門 起工1921年12月 竣工1926年11月 建造所 ウイルヘルムスハーフェン海軍工廠} 獨逸にとつて忘ることの出來ないエムデン號が、かうして新興獨逸の新市名を擔ふ第一艦として生れたのである。輕巡洋艦の多彩な任務を長短なく驗現するためには、速力の増加と航續力の増加といふ正反對の二つの條件を満足させなければならない。速力を増すために艦體をうんと細くし、艦上構築物は少く燃料は多く、しかもデイゼル重油機械を併用することによつてこの難間は見事に解決された。獨逸六隻の輕巡はみんな軍艦には珍らしい三推進器艦でその中央軸はデイゼル・ドライブになつてゐる。巡航速力にあつてデイゼル機關が如何に燃料の經濟になるか、第一世エムデン の戰闘史 が語つてゐる。前頁各艦の寫眞を併せよく注視して、細くとも各艦の装置を餘さず備へてゐる前檣を吟味していただきたい。
^ 初代はドレスデン級小型巡洋艦 のエムデン 、2代目はケーニヒスベルク級小型巡洋艦 のエムデン 、3代目が本艦である。
^ ケルン級小型軽巡は10隻建造する計画だったが、2隻(ケルン 、ドレスデン )しか完成しなかった。
^ 3.造船に應用せられし電氣鎔接の發達[ 13] 電氣鎔接の原理が發見されしは極めて古く約百年以前と稱せらるゝも、其後研究遅々として進まざりしが、偶々歐洲大戰に際し俄然工業界に於て勞力、材料、時間に對し極度の節約の必要に迫られ、其對策の一として電氣鎔接の發展著しきものあり。特に造船界に於て盛に應用せられ、早くも300噸乃至500噸の全鎔接船の出現を見たるも、其技術必ずしも信頼し難く、引續き各方面に電氣鎔接の研究益々進み、特に獨逸に於ては戰後造船材料の缺乏に悩み、熱心なる電氣鎔接の研究を試み、其結果戰後最初の巡洋艦エムデン號の船體に應用し、艦體重要に於て約1割の輕減を得たりと稱するに至り、愈々廣範圍に其成果を示し、世界造船界に異常の衝動を與へしは、其當時著しき事實なりき。其後工業各方面に於て電氣鎔接應用益々發展せしが、時恰もワシントンに於ける軍縮條約の締結を見、其必然の結果として一定制度噸籔の範圍内に於て可及的最大戰闘力を得んとする必要に迫られ、各國を通じて電氣鎔接の研究應用は刮目すべき發展を示せり。(以下略)
^ ニオベはユーゴスラビア 海軍 に売却されて「ダルマチア」と改名したあと、数奇な運命を辿った。
^ スラウェシ島 マカッサル を出発後、5月4日に長崎港 着、同日発[ 18] 。5月10日に宮島 着、広島市 を観光して11日出発[ 19] 。5月13日清水港 に寄港、23日発[ 20] 。5月24日から30日まで横浜滞在後(乗組員は上陸して東京 や鎌倉 など各地を観光、独逸学園 訪問など)[ 17] 、6月2日函館港 着[ 21] 。6月7日、函館を出発してアラスカ へむかう[ 22] 。
^ (海軍公報 第118号 昭和2年5月26日(木) p.7)[ 25] 〔 ○艦船所在 ○五月二十六日午前十時調【横須賀】千早 ▲、筑摩 ▲、榛名▲、北上 、日進 ▲ 、阿蘇 、山城、五十鈴、(旗艦)長門、鳳翔、(旗艦)金剛、(旗艦)加古、古鷹、(旗艦)磐手 ▲、淺間 、春日 、(司令)野風、沼風、波風、驅一 、(司令)灘風、島風 、夕風、汐風、(司令)帆風、太刀風、羽風、秋風、(司令)松 、榊 ▲、杉 ▲、柏 、三日月 、白露 、驅三一 、(司令)梅 、楠 、楓 、桂 、波一、波二、波九、波一〇、呂一二、呂一一、呂一三、(司令)呂五五、呂五四、呂五六、伊二一、伊二、(司令)呂二二、呂二一、呂二〇/(司令)掃一、掃二、掃三、掃四、神風 、初霜 、夕立 、夕暮 、如月 、響 /武藏 、鳴戸 、富士 、松江 、大泊 、高崎 、(加賀 )、(妙高 )、(伊五八 )(以下略) 〕
^ 二.資料募集ノ件[ 29] 「エムデン」ハ大戦ノ経験ニ鑑ミ獨独特ノ造船技術ニヨリ建造セルモノニシテ兵器等ニ於テハ学ブ所尠ナカラシモ一般艤装電気通信器及大戦ノ教訓ヲ活用セル諸点等参考トスベキ点多カラルベシト認メラル依ッテ構内関係各部職員ニテ仝艦ヲ見学スルヲ有利ト認ム此ノ際我海軍ヨリハ加古ヲ交換的ニ見学セシメ可然、ソノ範囲ハ追テ各部ト協議決定ノコトト致シ度
^ 軍艦「加古」は神戸 川崎造船所 で建造、1922年(大正11年)11月17日起工、1925年(大正14年)4月10日進水、1926年(大正15年)7月20日竣工。
^ 「エムデン」見学ノ件覚[ 32] 六-六-三〇 (略) (イ)艤装一般特ニ居住施設(加古級ト比較)
^ 昭和6年7月2日命により横濱在泊中の独逸巡洋艦「エムデン」を見学す[ 33] 。本艦は練習艦として既に昭和2年我国に来航し今回を以て第2回目とす
^ (4)船殻[ 35] (略)工作法に関しては外観上特に注意を惹きたるものなし。唯本級の進水は1925年の一月にして我古鷹級と建造の期を同じくせるが当時我海軍に於て電気溶接を実際に応用することの未だ行はれざりしに反し彼に於ては後に述ぶるが如き要領にして相当広範囲に溶接を使用し居る点は独逸に於ける溶接技術の進歩と云ふ点に於て相当注目に値するものと思考す。
^ 所見[ 36] 航海兵器ハ我ガ海軍ニ比シ特ニ優レタルモノヲ見サルモ全部純国産ナルハ羨望ノ極ミナリ
^ ◎謁見 獨國海軍練習艦エムデン艦長海軍大佐ワルター、ローマン 今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦副長海軍少佐ベルンハルト、リーベタンツ ヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全権大使ドクトル、ハーバート、フォン、ディルクゼン 同伴同大使附海軍武官海軍大佐ウェンネカート 共ニ昨二十一日午前十時天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
出典
参考文献
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(監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種 』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。ISBN 978-4-7747-8657-5 。
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関連項目
外部リンク