オエノンプロダクトサポート
オエノンプロダクトサポート株式会社は、兵庫県神戸市灘区に本社を置く企業。オエノンホールディングスの子会社で、灘五郷の西郷(新在家地区)に醸造工場を有する。 2018年以前の旧社名は富久娘酒造株式会社(ふくむすめしゅぞう)。「富久娘」銘柄の清酒を醸造していた江戸時代からの蔵元(花木酒造)をルーツとする。第二次世界大戦後、変遷を経て一時は旭化成グループの清酒事業を担った。2003年にオエノングループ入りし、2018年に清酒事業をグループ他社に移管して(「富久娘」銘柄は福徳長酒類に移された)、社名を変更した。 沿革花木家による経営天和元年(1681年)の創業とされる。寛政5年(1793年)の新在家村の酒造家についての史料によれば、花木屋長兵衛ら花木屋を称する3人が4500石あまりの酒株高を有しており、米屋庄兵衛(のちの沢の鶴)らとともに有力な酒造家の一角であった[1]。江戸時代には、「芳名木」「盛大一」といった銘柄を用いていた[2]。 明治時代に、東京・亀戸天神社の「おた福(福女)」にちなんで「富久娘」と名づけられた[3]。 花木家(花木甚右衛門)は、日露戦争後に急速に拡大した酒造家の一つで1911年(明治44年)には造石高が1万石を越える大手の一角となった[4]。「富久娘」は東京市場において、「菊正宗」「桜正宗」「白鷹」「大関」ともに灘酒の五大銘酒として定評を得ていたという[5]。大正期には、下り酒問屋を通さず東京市場で直接進出を試み[6]、1910年代には一層造石高を増加させた[7]。 富久娘酒造1963年(昭和38年)、花木酒造は経営破綻。旭化成工業が資本参加する東洋醸造によって事業が引き継がれ、「富久娘酒造株式会社」が設立された。その後、富久娘酒造は旭化成の子会社となった。 2003年、旭化成は富久娘酒造を合同酒精株式会社に譲渡。これにより、旭化成は清酒事業から撤退した。合同酒精は同年オエノンホールディングスに社名を変更し、持株会社化した(事業子会社として新たに「合同酒精」が設立された)。 2013年には日本酒の不正表示問題が発覚し、日本酒需要が拡大する中で波紋を広げ[8]、社長が更迭された[9]。 2018年、清酒事業をグループ他社に譲渡。銘柄「富久娘」は福徳長酒類に、「富貴」は合同酒精東京工場に移管された。これとともに、商号を富久娘酒造株式会社からオエノンプロダクトサポート株式会社に変更した。 年表
拠点
提供番組
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia