オスカー・ギャンブル
オスカー・チャールズ・ギャンブル(Oscar Charles Gamble, 1949年12月20日 - 2018年1月31日)は、アメリカ合衆国・アラバマ州出身の、MLBで活躍した元プロ野球選手。 "Big O"という愛称で知られた。 略歴シカゴ・カブス時代1968年6月7日にシカゴ・カブスからドラフト16巡目で指名を受け、6月18日に選手契約を結んだ。1969年8月27日にカブスでメジャーデビューを果たした。1969年は24試合に出場し、打率.225・1本塁打・5打点という成績を記録。 フィラデルフィア・フィリーズ時代1969年の11月17日にディック・セルマ投手と共にフィラデルフィア・フィリーズにトレードされた(このトレードでフィリーズはジョニー・カリソン外野手をカブスに放出。更に翌1970年の1月にラリー・コルトン投手をカブスへと放出し、トレードが完了した)。1970年はフィリーズで88試合に出場したが、打率.262・1本塁打・19打点・5盗塁という成績しか残せなかった。1971年は、若干ながら出場機会が増え、打率こそ.223という低打率に終わったが、6本塁打・23打点という数字はいずれも1970年のものを上回った。しかし、1972年は74試合に出場したものの、打数は前の2年間と比較すると100以上も減少。打撃成績も打率.237・1本塁打・13打点という低水準なものに終わった。 クリーブランド・インディアンス時代1972年11月30日にロジャー・フリード外野手と共に、クリーブランド・インディアンスへとトレードされる事に(トレードでフィリーズに加入したのはデル・アンサー外野手とマイナーリーグ選手のテリー・ウェッジウッド)。移籍1年目の1973年は、主に指名打者として113試合に出場。打率.267・20本塁打・44打点という成績を残し、自身初の20本塁打をクリアするなど、パワーを発揮した。続く1974年も、指名打者中心に135試合に出場。規定打席に到達し、打率.291・19本塁打・59打点という安定した成績を残した。因みに1974年はギャンブルにとって、唯一の規定打席に到達したシーズンとなった。1975年は、軒並み打撃成績は低下したが、一方で自身初の2ケタ盗塁(11盗塁)を記録した。 ニューヨーク・ヤンキース時代1975年11月22日に、パット・ドブソン投手との交換でニューヨーク・ヤンキースへとトレード移籍する事になった。インディアンスでは主に指名打者として試合に出場していたが、ヤンキースへ来てからはライトがメインの出場となった。その移籍1年目となる1976年は、110試合の出場で17本塁打を放ち、相変わらずのパワーを見せ付けた。 シカゴ・ホワイトソックス時代1977年4月5日にマイナーリーグ選手のボブ・ポリンスキー、ラマー・ホイト投手、そして200,000ドルと共に、バッキー・デント遊撃手と交換でシカゴ・ホワイトソックスへと放出。ヤンキースに在籍したのはわずか1年だった。しかし、1977年はギャンブルにとって自己最高といっていいシーズンになった。6月終了時点で63試合の出場で、13本塁打と前年を大きく上回るペースでホームランを生産。その勢いは7月に入っても止まるところを知らず、残りのシーズンで74試合に出場し、打率.329・18本塁打・50打点・OPS1.056と打ちまくった。そして、最終的には打率.297・31本塁打・83打点という好成績をマーク。シーズン終了後のMVP投票でも票数こそ少なかったものの、29位にランクインした。因みに、1977年は13.2打数に1本のペースでホームランを放っており、これはリーグ1位の数字である(1977年のギャンブルは規定打席には届いていないが、残りの打席全てが凡退だったと仮定してもリーグトップとなるため、記録上もリーグ1位として扱われる)。そして、シーズン終了後の10月28日にFAとなった。 サンディエゴ・パドレス時代同年11月29日にサンディエゴ・パドレスと契約を結んだ。前年に31本塁打を放っていた為、パドレスでも主砲として期待された。しかし、1978年のシーズンは126試合の出場で打率.275・7本塁打・47打点と、期待を大きく裏切った。 テキサス・レンジャーズ時代1978年10月25日にデーブ・ロバーツ三塁手と共にテキサス・レンジャーズにトレードされた(トレード相手はマイク・ハーグローブ一塁手、マーク・ベバッカ三塁手、ビル・フェイヒー捕手の3選手)。レンジャーズ移籍1年目となる1979年は、ホームランこそ少なかったものの、64試合で打率.335・8本塁打・32打点と大爆発した。 再びヤンキースへ大活躍していたギャンブルだったが、シーズン中の8月1日の大型トレードで古巣のヤンキースへ復帰する事になった(ギャンブルと共にヤンキースに移籍したのは、後日に決定したマイナーリーグ選手のエイモス・ルイス。その交換相手は、こちらも後日決定となったミッキー・リバース外野手。更に同年の10月8日にトレードの続きが行われた。レンジャーズはレイ・フォンテノー、ジーン・ネルソン両投手をヤンキースへ放出。ヤンキースがいずれもマイナーリーグ選手のニール・マーシュ、マーク・ソフティ、それに以前ギャンブル絡みのトレードでヤンキースへ移籍していたボブ・ポリンスキーの3選手をレンジャーズへ放出。これによってトレードが完了した)。レンジャーズに所属していた時でさえ、大いに打っていたギャンブルだったが、ヤンキース移籍後は打撃好調に拍車が掛かった。移籍後はわずか36試合にしか出場していないにもかかわらず、打率.389・11本塁打・32打点というハイペースで打ちまくった。1979年の2チーム通算成績は100試合の出場で、打率.358・19本塁打・64打点という成績だった。翌1980年は、1年間通じてヤンキースでプレイ。流石に1979年ほどの打率は残せなかったものの、78試合の出場で14本塁打を放つなど、持ち前の長打力は存分に発揮した。続く1981年もヤンキースに所属。80試合の出場で10本塁打と、ホームランこそまずまずのペースで打っていたが、打率は.238と振るわなかった。1982年は、3年ぶりに100試合以上に出場(108試合)。打率.272・18本塁打・57打点・6盗塁と復調した。1983年は、5年ぶりに本塁打が10を下回った。そして、シーズンオフの11月7日にFAとなったが、1984年4月17日にヤンキースと再契約を結んだ。その1984年は、10本塁打をクリアしたが、打率は.200を下回るなど、年齢的にも衰えが感じられるシーズンとなった。 再びホワイトソックスへ、そして引退1984年11月8日に自身3度目のFAとなった。そして、年明けの1985年3月23日に古巣のホワイトソックスと契約を結んだ。しかし、8月12日にホワイトソックスを解雇された。結局、解雇されるまでに70試合に出場したが、打率.203・4本塁打・20打点という成績に終わった。その後、所属先を見つけられぬまま、現役を退くことになった。 選手としての特徴20本塁打を超えたのは2度だけだが、350打数未満で15本以上のホームランを放ったシーズンが5度もあり、200打数未満で2ケタ本塁打を打ったことが3度もある。通算では22.5打数に1本の割合でホームランを放っている。 守備面では、外野手としての出場が818試合で、他には一塁手として1試合に出場したことがあるだけである。指名打者としての試合出場も561試合ある。 走塁面では1975年に11盗塁を記録したことがある。 左投手に弱いとされていた[1]。 グリップを膝上ほどに乗せた極端に屈んだバッティングスタンス、帽子からはみ出るアフロヘアーといった特徴は一度見たら忘れられない選手であった。 スタンス通りローボールヒッターとして知られていたという。 詳細情報年度別打撃成績
脚注
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