ガイウス・ユリウス・ユッルス (紀元前489年の執政官)
ガイウス・ユリウス・ユッルス(ラテン語: Gaius Julius Iullus)はパトリキ(貴族)出身の共和政ローマ初期の政治家・軍人。紀元前489年に執政官(コンスル)を務めた[2]。表記ゆれでコグノーメンはユルス(Iulus、アイネイアースの子アスカニオス)とも[3]。 家族伝説によると、ユリウス氏族は第三代ローマ王トゥッルス・ホスティリウスがアルバ・ロンガを破壊した際にローマに移住したとされる古い氏族である。しかし執政官に就任したのはユッルスが初めてであり、共和政ローマ成立から21年目のことであった。ユッルスの家系に関しては、現存するカピトリヌスのファスティには欠落している[4]。もし彼がガイウス・ユリウス・ユッルス (紀元前482年の執政官)(C. f. L. n.)の父であるとすれば、当項目ユッルスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウスである。これは Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythologyでの解釈であり、Wilhelm Drumannのユリウス氏族に関する学説に沿っている[2]。しかし、Broughtonはユッルスの父の名はガイウスであるとしている[1]。 何れにせよ、紀元前489年の執政官ユッルスが紀元前482年の執政官の父であるとすれば、彼は紀元前473年の執政官ウォピスクス・ユリウス・ユッルスの父でもあると思われる。ウォピスクスは子ガイウスの弟であろう[5][2]。その後の歴史に現れるユリウス・ユッルス家の人々は、この兄弟の子孫である[2]。古代の歴史家の何人かはガイウス・ユリウス・カエサルもこの家の子孫であると信じていた[6]。 William Berryが1816年に出版した家系図によると、紀元前489年の執政官ガイウスの父のプラエノーメンをルキウスとし、祖父のプラエノーメンをヌメリウスとするが、ヌメリウスというプラエノーメンを使った例はユリウス氏族には確認できず、またどの資料を参照したかも不明である。ヌメリウスには息子が二人おり、もう一人の息子はマルクス(これもユリウス氏族には無いプラエノーメンである)で、彼がウォピスクスの祖父であるとしている。Berryは信頼性の高い資料に基づいたとしているが、その資料は不明で、さらの他の歴史的資料とも一致しない[7]。
経歴ユッルスは紀元前489年に執政官に就任。同僚執政官はプブリウス・ピナリウス・マメルキヌス・ルフスであった。ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、この年にアッティウス・トゥリウス(en)を指導者とするウォルスキ族がローマと衝突した。ローマを追放されていた将軍グナエウス・マルキウス・コリオラヌスの支援も受け、ウォルスキはローマとの戦争の準備を開始し、ラティウム領土を襲撃した。ウォルスキの軍事行動はローマの貧困層に大きな影響を与え、すでに緊張していたパトリキとプレブス(平民)の関係をさらに悪化させた[8][9][10][2][1]。 元老院は市民の不満を鎮めようとしていたとき、コリオラヌス指揮下のウォルスキ軍はローマの植民市であったキルケイ(現サン・フェリーチェ・チルチェーオ近郊)を占領した。両執政官はキルケイを監視し、ローマの同盟国に援助を求め、さらにウォルスキの脅威に対するために軍の編成を開始した。しかし軍の編成が完了する前に、執政官の任期が終了した。コリオラヌスとの対決は、翌年の執政官スプリウス・ ナウティウス・ルティルスとセクストゥス・フリウス・メドゥッリヌスに引き継がれた[11][9][12][3]。 脚注
参考資料
関連項目
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