ガジ・ガジエフ
ガジ・ムスリモヴィチ・ガジエフ(ロシア語: Гаджи Муслимович Гаджиев、ロシア語ラテン翻字: Gadzhi Muslimovich Gadzhiev、1945年10月28日 - )は、ロシア・ダゲスタン共和国出身[1] の元サッカー選手、サッカー指導者。 来歴ソ連時代ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国ブイナクスク出身[2]。スパルタク・ハサヴュルトでユース年代を過ごす[1][2]。 その後、レニングラードの2クラブ、スパルタク・レニングラードとスコロホート・レニングラードでプレーするものの、1965年に極度の近視を理由に若くして現役引退した[1][2]。 その後はスパルタク・ハサヴュルトでコーチ経験を積んだ後、1973年ディナモ・マハチカラ監督に就任[1][2]、1975年にはダゲスタンのリーグで優勝した。退任後はモスクワの大学で[1] スポーツ心理学とトレーニングを学び、教育学の博士号を取得。そのままモスクワに留まり1980年からCSKAモスクワでコーチとして活躍した[2]。 ソ連/ロシア代表一方、1978年からソビエト連邦代表スタッフ入りし、A代表や五輪代表のアシスタントコーチ、ナショナルトレセンの代表者やU-19およびU-16監督などを歴任する[1]。 ソビエト連邦の崩壊後の1992年独立国家共同体(CIS)代表、1992年バルセロナオリンピックEUN代表、1992年からのロシアでも代表コーチの職にあり、20年近く代表スタッフとして活躍した[1]。その間コーチとして、1987年ワールドジュニアユース優勝、1988年欧州選手権準優勝、同年ソウルオリンピック金メダル獲得などに貢献した[1][3]。 ロシア以降1999年、当時トップディヴィジョン(2部リーグ)だったFCアンジ・マハチカラの監督に就任するといきなり優勝してトップリーグ(1部リーグ)へ昇格[1]。さらに翌シーズンには4位入賞を果たしてUEFAカップ出場権を獲得、同年にはロシア最優秀監督に選出された[1][3]。 2002年、その実績を買われヴァレリー・ニポムニシから推薦を受け、Jリーグ・サンフレッチェ広島の監督に就任[3][4]。しかし自身初の海外での指揮であったこともあり、チームとのコミュニケーション不足からチーム方針の相違[注 1]や補強の失敗[注 2]や選手との軋轢[注 3]を生み、さらに主力の長期離脱[注 4]や不調もあいまってチームは下位に低迷した。同年7月、シーズン途中に事実上解任された[注 5][4]。 2003年、プレミアリーグから1部リーグに降格した古巣・アンジの監督に復帰[1] するものの昇格を果たせず1年で退団。翌2004年からクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラ監督を務め、同年のロシア・カップでは準優勝した[1]。 2007年5月からサトゥルン・ラメンスコーエ監督に就任すると下位に低迷していたチームをいきなり5位にまで上げ、チームを初のUEFAインタートトカップ出場に導く。同シーズンロシア最優秀監督となる。翌2008年は下位に低迷し、8月にロシアカップで早期敗退したのを機に解任された[1]。 2010年、7年ぶりにアンジの監督に復帰する。翌2011年1月、チームは大富豪スレイマン・ケリモフがオーナーとなり、ロベルト・カルロスやサミュエル・エトーらビッグネームを獲得、同年9月にチーム成績が平凡なことから監督にもビックネームを招集することが決定しガジエフは解雇された[10]。 2012年6月、この年からリーグ秋冬制となるロシア・プレミアリーグのFCヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド監督に就任した[11]。同年12月、引き抜かれる形で同リーグのクリリヤ・ソヴェトフ監督に復帰した[12]。 2013年8月、2年ぶりにアンジの監督に復帰[13]、4度目の就任となった。このシーズン、アンジは緊縮財政で挑んでおりエトオやウィリアン、ラッサナ・ディアッラ、ラシナ・トラオレなど主力が移籍売却された中での監督就任だった。結果、一度も浮上することなく最下位に沈み、シーズン終了後ファーストディヴィジョン(2部)に降格、2014年5月責任を取る形で辞任した[14]。 2015年、FCアムカル・ペルミは成績不振からスラヴォルユブ・ムスリン監督を解任し、後任としてガジエフが監督に就任した[15]。 監督成績
ギャラリー
脚注
関連項目外部リンク
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