ガセネタ は、日本 のロックバンド 。
概要
ガセネタは、園田佐登志 主宰の明治大学 ・現代の音楽ゼミナール [ 注 2] に出入りしていた山崎春美 (Vo/後にTACO )、浜野純 (g/元連続射殺魔 、後に不失者 )、大里俊晴 (b/後にTACO他)の3人によって1977年 9月に結成された[ 5] 。ドラムス には村田龍美、高野勉、乾純 (後にザ・スターリン )、佐藤隆史 (吉祥寺マイナー 店主/ピナコテカレコード 主宰)らが入れ替わるように加わっている。自称「最後のハードロック バンド 」「禁治産階級 のバンド」[ 10] [ 11] 。1978年 に32歳で夭折した音楽評論家 の間章 は「このバンドの為なら何でもする 」と晩年に語った[ 12] [ 13] [ 14] [ 15] 。
同メンバー(山崎+浜野+大里)による別名義バンドに「ガセネタの荒野」「かつお」「て」「こたつで吠えろ」「しゃけ 」「テテ」「世界の果てにつれてって」「アナルキス」「がせねた 」などがある[ 1] 。「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる 」「宇宙人の春」「社会復帰」 以上たった4曲のレパートリーで大学 構内や学園祭 、吉祥寺マイナー などのライブハウス でゲリラ的に活動を行った。1979年 3月30日 解散[ 16] 。
活動当時は音源を一切リリースせず、解散から13年後の1992年 に大里俊晴が発表したガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野 』(洋泉社 )に対抗して山崎春美が1stアルバム 『SOONER OR LATER 』(遅かれ早かれ)をPSFレコード から1993年 にリリース、これがガセネタの初音源となる[ 17] 。2011年 には『ガセネタの荒野』(月曜社 )の復刊にあわせて、山崎春美+佐藤薫 監修の10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX 』がディスクユニオン からリリースされた。
2015年 には大里俊晴の7回忌にあわせて36年ぶりに再結成[ 注 3] されるが、新録アルバム発売直前の2018年 10月23日 に山崎春美がX (旧Twitter )を通じてメンバーや関係者に相談せず、ガセネタを独断で解散したと発表した[ 18] [ 19] 。その後、computer fight+山崎春美名義での散発的なライブを経て、2025年 よりガセネタの活動を再開した[ 20] 。
メンバー
解散時に在籍していたメンバー
浜野純 (ギター /→不失者 )
解散時18才[ 12] 。元連続射殺魔 、後に灰野敬二 の不失者 にベーシスト として参加。
本人曰く「生傷が耐えなかった 」[ 25] という性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」と評され、吉祥寺マイナー に出入りしていたJOJO広重 やECD などアンダーグラウンドなミュージシャンにも多大な影響を与えた[ 26] [ 27] [ 28] 。また不失者では大音響のベース を弾いてライブハウス の壁を倒壊させたという伝説もある[ 25] 。こうした浜野の演奏について後に現代音楽 研究家 となる大里俊晴 も「どうして一本のギターから、六本しかない弦から、十本しかない指で、彼があんな音を引き出すことが出来たのか今でも不思議で堪らない 」と評している[ 1] 。ちなみに大里俊晴 著『ガセネタの荒野 』によれば、浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、さらに六弦にはベース用の弦を張っていたといわれている[ 1] 。また浜野はプリンス が愛用していたマッドキャット というギターを使っており、基本的にテレキャスター ・モデルしか使わなかった。前掲書によれば「フェンダー の中でも、最も“遊び”の少ないギターだったから」とのこと[ 1] 。当然、浜野の両手が過激な演奏で血に染まるのは日常茶飯事であった[ 1] [ 26] 。後期ドラマー の佐藤隆史 (吉祥寺マイナー 店主)は次のように証言している[ 29] 。ガセネタの練習ってすごいきびしくてね。やっぱ、許してくれないの。果てるまでやらなきゃ、許してくれない。気を抜くとねぇ、みんなに罵倒される。うまいかどうかじゃなくてもう、全力疾走で、できなくなるまでやれ!って感じで。
必ず血だらけになってたよ。浜野も手が血だらけになるし、大里も
椎間板ヘルニア になっちゃったし、俺もヘトヘトになって手からやっぱ血出すまでやるって感じ。そこまでやらないと、許してくれない。山崎とか、その辺ヘラヘラしてるけど、浜野はきびしかったな。それはそれはストイックでしたよ。
大里いわく、浜野はたいへん早熟な天才美青年であったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ 」と語ったことでも知られる[ 1] 。これは過剰と速度で1970年代 末を駆け抜けたガセネタの精神性を象徴する言葉となった。なお浜野は後にガセネタ時代を振り返って「アングラってさ、伝説になりやすいんだよ 」「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか 」と自嘲気味な皮肉まじりの回想を行っている[ 25] 。
1992年 、ガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER 』のリリースにあたって、明治大学 ・現代の音楽ゼミナールを主宰していた園田佐登志 が浜野に音源化の許諾を求めたところ、遠い過去の話でしかなかったのか「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」として印税 の受け取りを辞退する旨の手紙を園田に出している[ 30] [ 31] 。
大里俊晴 (ベース /→TACO )
解散時21才[ 12] 。ガセネタの伝記 的小説 『ガセネタの荒野 』著者。ガセネタ解散後、TACO にギタリスト として参加。
早稲田大学 文学部 卒業後、パリ第8大学 で現代音楽 の美学 を学び、ダニエル・シャルル に師事する[ 注 5] 。芸術研究科修士課程および研究課程修了後、1998年 から横浜国立大学教育 人間科学部 助教授に就任。2009年 に他界するまで「ガセネタ」「TACO」の音源を30年間所蔵した[ 21] 。
1992年 『ガセネタの荒野 』の上梓にあたってガセネタ結成のきっかけを作った園田佐登志 に「この本は、園田さんへの僕からの最終返答だと思って下さい。僕の言うべきことはこれで総てです。僕はもう二度とガセネタについて発言することはないでしょう 」という旨の手紙[ 33] を送ったのち沈黙を貫き通し、2009年 に逝去。同書が生前唯一の単著となった。
2005年 に横浜国大が実施したインタビューでは前述の経緯もあり、「ガセネタ」など具体的な固有名詞こそ挙げなかったものの、当時の音楽活動について次のように述懐している[ 34] 。ハードロック を極限まで煮詰めていったらどうなるかということをやっていて、自分でも、もう触れたくないほどハードな生活でした。それは、昔、熱愛してた彼女をもう思い出したくも会いたくもない、みたいな感じです。ただそこで、
ロック のパッションみたいなものはしぼり出しちゃったので、もうこの方向ではあまり先へ行けないなという気になっていたんです。でも勉強だとまだいける気がして、そっちへ向かったんです。
パートナーの渡邊未帆 は「やり残したことは?」と晩年の大里に尋ねたところ、彼はこう答えたという。「ない。ガセネタで全部やった。ガセネタが終わって、全部終わった。あとは、ただの生活だった」[ 注 5] 。また亡くなるおよそ1か月前、渡邊が病室で「最期に山崎春美さんと浜野純さんに会いたい?」と尋ねたとき、彼はこう答えた。「初恋の人が老けた姿なんて見たくない」[ 35] 。生前最期の言葉は「ガセネタは凄いバンドだった。あんなバンド、ない 」「ジミ・ヘン はここで死なない 」[ 36] 。
生前は非常にシャイな性格だったとされ[ 37] 、いつも黒いサングラスにチューリップハットをかぶり、観客の背後を向いて演奏を行っていた。元TACOの白石民夫 は「ガセネタで唯一事務能力のある人間。俺は天才と称される人間よりは、それを支えて、きちんとたたせてやってる人のほうが優れている人間だと思う。それに彼は官僚的でないでしょ。事務能力があって、官僚的でないって、大変なことだと思う」と評している[ 38] 。
佐藤隆史 (ドラムス /→ピナコテカ )
元メンバー
村田龍美(ドラムス)
初代ガセネタのメインドラマー(前期)
浜野の高校時代の同窓生という縁からドラムス を引き受ける[ 1] 。タイトでクリアーな音が出せ、大里曰く「とても素晴らしいドラマー」であったが、同時に「普通の考えを持った、只の常識人」でもあったようで、特に機材運びを全く手伝おうとしない山崎や浜野に対しては「お前らクズだよ」と言い放つなど心底軽蔑しきっていたという[ 1] 。その後、大学入試 の受験勉強が本格化したのを機にガセネタを脱退した[ 1] 。なお1978年 に明治大学和泉校舎 で録音され、1993年 にリリースされた1stアルバム『SOONER OR LATER 』でのドラムスは村田が担当している。
高野勉 (ドラムス)
1978年8月末から9月初旬の数日間のみ参加した謎の人物。
『ガセネタの荒野 』には高野についての言及がなく、メンバーの中では最も影が薄い。
乾純 (ドラムス/→ザ・スターリン )
1978年9月23~24日にかけて東映所沢撮影所で行われた現代音楽コンサート「逆転する24時間」で一度だけ ドラムスを担当した。ガセネタ解散後は、遠藤ミチロウ 率いる自閉体 とザ・スターリン の初代ドラマーとして活躍する。2015年 のガセネタ再結成後は、2018年 の再解散まで一貫してドラムスを務め上げた。乾のエピソードについては『ガセネタの荒野 』に詳しい。
亀川千代 (ベース)
田畑満 (ギター)
その他
園田佐登志 (共同作業者)
千川新 (ギター)
computer fightのギタリスト。13期メンバーとして再々始動した新生ガセネタのギター担当[ 20] 。ガセネタを自身の音楽的ルーツとして繰り返し言及しており、演奏スタイル、録音方法、音楽観に至るまで強い影響を受けている[ 41] 。
楽曲一覧
ガセネタの持ち曲は、たった4曲しかなかった。
雨上がりのバラード (作詞:山崎春美[ 42] / 作曲:浜野純)
父ちゃんのポーが聞こえる (作詞:山崎春美[ 43] / 作曲:浜野純)※Tangerine Dream のカバー[ 44]
宇宙人の春 (作詞:山崎春美[ 45] / 作曲:浜野純)
社会復帰 (作詞:山崎春美[ 46] / 作曲:大里俊晴)
このうち浜野純 が作曲した「父ちゃんのポーが聞こえる 」は、ガセネタの代表曲に位置づけられる。1stアルバム『SOONER OR LATER 』では、スタジオ録音版が最終トラックとして収録されたほか、1979年3月30日に吉祥寺マイナー で行われたラストライブでも“最後の曲”として本曲が演奏され、ガセネタの終幕を象徴するナンバーとなった[ 16] 。
当初、浜野は最初の2曲のうち「これのどっちにするかだな」と言いながら両方を弾き、「いや、こっちはダメだ。これしかない」と、2曲目を選んだ。しかし、その2曲目は、比較的ロック要素を持っていた1曲目と比べてもリフ がひとつあるのみで、インプロヴィゼーション の要素が強く、極めて簡素な構成であった[ 注 6] 。山崎は顧みられなかった1曲目に同情し、「雨上がりのバラード 」と勝手に命名した。曲調とは一致しないこの名称について「どこがバラードなんだ」と浜野から指摘を受けたものの、山崎は「2曲しかないレパートリーの『勝負の分かれ目』みたいな『ガセネタのテーマ』曲にくらべて、おちゃらけた付け足しみたいなあつかわれようは、充分、泣きが入るところだ」としている[ 47] 。なお、2曲目については、紆余曲折の末に浜野によって「父ちゃんのポーが聞こえる 」[ 注 7] という正式な題名を与えられたものの、曲名で呼ぶことは一切なく、実際には「1曲目」「2曲目」という呼称が通称として用いられ続けた[ 47] 。工藤冬里 は2曲目について「僕は、加速に焦点を与えたこの『父ちゃんのポーが聞こえる』という1曲だけでガセネタはいいと思っている。ドラムとベースが遅れ続けることによってしか曲をひきのばせなかったとしても」と評している[ 32] 。
その後、山崎が不満を言い続けたことで、浜野は「わかったよ。ロックっぽいのを作ってやったから感謝しろ」と3曲目を持ってきた。これが明確に曲らしい構成[ 注 8] をもった楽曲であったため、山崎は喜び、その日のうちに歌詞をつけて「宇宙人の春 」と命名した[ 47] 。後年、山崎はガセネタで一番の名曲についてインタビューで訊かれた際に、持ち曲として「宇宙人の春」を挙げている[ 48] 。
さらに大里俊晴 が4曲目を持ち込み、これをもってガセネタの曲作りは終わった。この曲に対して山崎は、作曲者のイメージを尊重して「社会復帰 (リハビリテーション) 」と命名している。当時、大里は立って演奏することに強いこだわりを持っていたが、椎間板ヘルニア を患い、演奏中に倒れ込むこともしばしばだった。大里は「バンドの機材を運ぶのに、お前らが全然やらないから腰を痛めた」と山崎らに繰り返し語ったが、それでも本人はコルセットを着けたまま立ってベースを弾いた。その姿を見た浜野と山崎が「なかなかカッコいい。凛々しい」と口々に賞賛すると、大里は「血も涙もない奴らだ」と返して笑っていたという[ 47] 。
後に大里は『ガセネタの荒野』で「これで全部だ。4曲ある。4曲もあった、というべきだろう 」と述べている[ 49] 。
ディスコグラフィ
アルバム
『SOONER OR LATER 』(1993年)
1978年 春に明治大学 で行われたスタジオ・セッションおよびライブ音源を収録した1stアルバム。1993年にインディーズレーベル 「PSFレコード 」からリリースされた。企画は生悦住英夫 (モダーンミュージック 店主/PSFレコード主宰者)と山崎春美 が担当した。本CDは長らくガセネタ唯一の音源として流通し、2011年にBOXセット が発売されるまで唯一の作品となっていた。現在もガセネタにおける唯一のスタジオ・アルバム となっている。
本作のリリースは、1992年 に大里俊晴 の自伝的小説『ガセネタの荒野 』(洋泉社 )が刊行されたことを契機として本格始動した。当初、山崎は同書の内容に関連して意見を述べる名目で、当時リクルート に勤務していた天野秀起 (後にミュージックマイン 代表取締役CEO)を自宅に呼び出したが、実際には自身の著書出版についての相談が主目的であった。同時期に生悦住が、ガセネタの音源をCD化したいと申し出たことにより、リリース計画が具体化した。しかし、制作の過程で山崎と生悦住の間に意見の相違が生じ、交渉は一時難航した。最終的には、天野が両者の調整役を務める形で介入し、当初の計画通りPSFレコードからのリリースとして実現した[ 6] 。
収録内容は「雨あがりのバラード」4テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」2テイク、「宇宙人の春」2テイク、「社会復帰」1テイク、その他2テイク、以上11テイク。本作に収録された音源は、主にふたつの録音から構成されている。ひとつは明治大学和泉校舎 学生会館1階の売店前にあった階段踊り場に設けられた仮設スタジオにおいて不失者 のベーシスト であった小沢靖 がマイクセッティングを担当し、オープンリール 式テープレコーダー で録音したスタジオ音源であり、もうひとつは明治大学記念館 で園田佐登志 が主催したコンサート「Free Music Space 」における演奏をナカミチ 製カセットデッキ で録音したライブ音源である[ 5] [ 31] 。このうち前者は、園田が主宰する自由音楽共同体「Free Music Community」(通称:FMC)と「第五列 」[ 注 9] の共同レーベルから1979年2月にカセットテープをリリース予定だったが実現せず[ 5] [ 31] [ 50] [ 51] 、1982年には佐藤薫 が主宰するカセットレーベル「スケーティング・ペアーズ」からの音源リリースが予定されるが、これも実現しなかった[ 52] 。
その後、前述したような経緯を経て、上記の音源が大半を占める本CDの企画が山崎の主導で進められ、大里の了解を得られぬままリリースが強行された[ 5] [ 31] 。このリリース経緯は、その強引さから業界内でも波紋を呼び、あるレコード会社の関係者は「快挙なんだか、暴挙なんだか」と苦笑したという[ 53] 。
ジャケット は江夏豊 の逮捕記事を転載したもの[ 54] 。帯には大里俊晴 著『ガセネタの荒野』と本CDが無関係であることを促す「類似品注意」の断り書きがある。現在廃盤。
『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX 』(2011年)
2011年 7月20日、ディスクユニオン のレーベル「SUPER FUJI DISCS」よりリリース。1977年 夏のごく初期から1979年 3月30日 解散前夜まで、時期や参加メンバーによって「こたつで吠えろ」「て」「ガセネタの荒野」「アナルキス」など名前を変えながら行なった様々なライブや練習スタジオのカセット一発録音を山崎春美 と佐藤薫 の監修のもと、8枚のCD(Disk1~8)に収録。「雨上がりのバラード」26テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」27テイク、「宇宙人の春」17テイク、「社会復帰」11テイク、その他11テイク、以上670分92テイク収録。これに加えてサイケデリック・ロック バンド「HIGH RISE 」のメンバー(成田宗弘、南條麻人、氏家悠路)に山崎春美と町田町蔵 が加わった1985年のライブ音源(他)をDisk-9に、さらにMOODMANによる2011年ガセネタ・スピード・ミックス盤を附した10枚組。番外編CDとして1977年の初期セッション「こたつで吠えろ!」を先着特典付。
このBOXセットについてラストライブのオーディエンス音源を提供したJOJO広重 は「吉祥寺マイナー や雑誌『HEAVEN 』などとイメージがつながることから、もっともっと禍々しいものをイメージしていたが、このCD-BOXはとてもすがすがしいものを感じた。一級の資料集であり、バンドの記録であるとともに、ひとつの時代の記録にもなっている。バンドとはなんなのか、ある種の解答がここにある気がする」と評した[ 55] 。
『グレイティスト・ヒッツ 』(2011年)
既発音源を再編集したベスト・アルバム。「雨上がりのバラード」3テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」3テイク、「宇宙人の春」3テイク、「社会復帰」3テイク、その他2テイク、以上14テイクを収録。
『GASENETA LIVE 2018.04.25 』(2018年)
ガセネタ結成40周年と大里俊晴 没後9周年を記念して発売された再結成後初の新録アルバム。2018年 4月25日 に新宿LOFT で行われたライブ「ガセネタだけ(他なし)2018」を収録したもので、演奏者は山崎春美(Vo)、亀川千代(Ba)、田畑満(Gt)、乾純(Dr)の4人。ジャケットデザインとロゴデザインは宇川直宏 が担当した。「雨上がりのバラード」3テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」1テイク、「宇宙人の春」4テイク、「社会復帰」3テイク、以上11テイクを収録[ 56] 。
シングル
『ガセネタ 』(2017年)
「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる 」「宇宙人の春」「社会復帰」以上4曲しかないレパートリーからそのベスト・トラックを収録したアナログ7インチEP。
『ガセネタ GASENETA 』(2018年)
フィンランドのEktro Recordsから発売されたアナログ12インチEP。『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』から厳選した11曲と、BOXセット制作後に発見されたテープ[ 注 10] から1978年11月3日の日芸 ライブより「父ちゃんのポーが聞こえる 」未発表テイクを収録。黒盤と黄盤の2種類あり。
『雨上がりのバラード/社会復帰 』(2018年)
アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。
『父ちゃんのポーが聞こえる/宇宙人の春 』(2018年)
アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。
未発表音源テープ・映像
1978年11月3日:日大芸術学部LIVE
1978年11月3日:日大芸術学部LIVE
1978年11月4日:日大芸術学部LIVE(インストゥルメンタル)
1978年11月5日:早稲田大学LIVE(リハーサル)
1978年11月5日:早稲田大学LIVE(8ミリフィルムでも撮影 )
3番目のトラックは、ヴォーカル抜きのライヴ演奏となっております。このカセットには、余りに激しい演奏でベース弦が切れてしまい演奏が止まってしまったライヴも含まれていたと思います。「演奏できない、弦が無いもん」という、大里さんの声が入っていた様な、そんな記憶があります
[ 57] 。
その他
『ガセネタ 』(1979年)
『タコ 』(1983年)
『5・11とはなにか 』(2025年)
2025年5月11日に西荻窪FLATで行われた自主企画イベント「正しい傷つき/傷つけ方」における、computer fightとガセネタによる共演をノーカットで収録した全38曲入りのライブ・アルバム 。13期メンバー[ 20] により演奏された「雨あがりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」以上4曲しかないガセネタのレパートリーを収録。同年6月6日、音楽販売プラットフォーム「Bandcamp 」をはじめ、各種ストリーミングサービスにてリリースされた[ 60] 。2025年現在、ストリーミング 音楽配信サービス で聴取可能な唯一のガセネタ音源である。
書籍
大里俊晴 『ガセネタの荒野 』(1992年 9月、洋泉社 )ISBN 4896911083
1977-1979年を過剰と速度で駆け抜けた唯一無二のロック・バンド 「ガセネタの荒野」。その結成から解散までの破天荒な音楽活動やバンド周辺の人間関係を実名で赤裸々に描写した自伝 的青春小説 にして著者唯一の書き下ろし 単行本 。1970年代 後半のニュー・ウェイヴ 黎明期を舞台に、東京の地下音楽シーン、特に吉祥寺マイナー などの伝説的なライブハウス やイベント現場の内情、ロックとマイナー音楽を取り巻く混沌とした状況、特異な地下水脈と乱脈な人脈、当時の先鋭的なバンドをめぐる精神的傾倒を一人称形式で回想する[ 61] 。企画・編集協力は、大里の旧友である丸宝行晴 (1957年生 - 2024年没/元集英社 『スーパーダッシュ文庫 』編集長 )が手がけた[ 36] 。当時、大里はガセネタの記憶から逃れるようにフランス ・パリ へと逃避[ 注 5] していたが、それでも断ち切れなかった過去と決別するため、これまでの人間関係を断つ覚悟で本書の執筆に踏み切った[ 1] [ 36] 。大里にとって本書の出版は、生存をかけた最終手段であり、その切実な思いを丸宝相手に次のように語っている[ 36] 。一生のお願いがある。何もいわずに、この原稿を本にしてくれ。頼む。一円の印税もお金も受け取る気はない。ただし、一文字も変えずに出版してくれ。それ以外はすべてまかせる。古本屋で百円で売っている本のようなものであってほしい。これを出さないと、俺はこれから生きていけないのだ。パリからも帰れないのだ。
諸般の事情で本書は長らく絶版 になっていたが、2011年に10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX 』がディスクユニオン からリリースされるのにあわせて、1992年刊行の洋泉社 版から写真・見出し・参考資料を削除した新装改訂版が山崎春美 の題字で月曜社 から復刊された。2017年1月には、渡邊未帆 のあとがきを付記した英訳版『Gaseneta Wasteland 』(加藤デビット・ホプキンズ訳)がPublic Bath Press社から刊行されている。
メンバー変遷
フロントマンの山崎春美 は「浜野純 と大里俊晴 がいなくてもガセネタですか」という質問に対して次のように答えている[ 11] 。
もちろん。価値があれば再生できる。ただ、一人でも欠けたら同じバンドではなくなる場合があって、それがガセネタの場合、浜野・大里・山崎になる。結局、変容した内容にふたたび魂を吹き込めるかどうかにかかる。
時期
Vocal
Bass
Guitar
Drums
バンド名
備考
1期
1977.晩夏
山崎春美
大里俊晴
浜野純
明治大学 ・現代の音楽ゼミナールでバンド結成。
2期
1978.01.22-
村田龍美
ガセネタの荒野、かつお、て、こたつで吠えろなど
ライブデビュー。 この時期のライブは明治大学で行われた。
3期
1978.08.29-
高野勉
ガセネタ
この時期はスタジオ練習と新宿ライヒ館モレノでの単発ライブを行う。
4期
1978.09.09
佐藤隆史
ガセネタの荒野
吉祥寺羅宇屋で単発ライブ。
5期
1978.09.24
乾純
ガセネタ
乾純は一回のステージで脱退、後任は佐藤隆史。
6期
1978.10.07- 1979.03.30
佐藤隆史
この時期のライブは、主に都内の学園祭[ 62] や吉祥寺マイナー で開催されたシリーズコンサート「うごめく・気配・きず」で行われた。1979年3月30日解散。
7期
1985.01.20
山崎春美町田町蔵
大里俊晴 南條麻人
成田宗弘
氏家悠路
TACO
TACO+HIGH RISE がガセネタの楽曲を演奏。
8期
2015.11.17
山崎春美
松村正人
成田宗弘
乾純
ガセネタ
新宿LOFT にて再結成、36年ぶりに活動を再開。 元ガセネタ、ザ・スターリン の乾純が再加入。
9期
2017.03.07-
田畑満
元ボアダムス の田畑満が加入。
10期
2018.04.25- 2018.10.23
亀川千代
田畑満
元ゆらゆら帝国 の亀川千代をメンバーに迎え再スタート。
11期
2018.11.17-
山崎以外全員脱退となる。
12期
2019.04.03
不破大輔
石塚俊明
東京・渋谷LOFT HEAVENで単発ライブ。原田依幸がサポートピアノを担当。セットリストは「父ちゃんのポーが聞こえる」のみ。
13期
2025.05.11-
田中喉笛
千川新
田辺/チャック
約6年ぶりに「ガセネタ」名義でのライブが実現[ 20] 。東京・西荻窪FLATにて、computer fightとのツーマン形式の自主企画ライブ「正しい傷つき/傷つけ方」内にてガセネタの楽曲が演奏された[ 8] 。セットリストは「雨あがりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」の全4曲。
関連年表
ガセネタ結成のきっかけを作った明治大学 ・現代の音楽ゼミナール主宰者の園田佐登志 (左)
1977年9月 - 園田佐登志 主宰の明治大学 ・現代の音楽ゼミナールで山崎春美 、浜野純 、大里俊晴 の3人によりバンド結成。
1978年3月7日 - 吉祥寺マイナー 開店。
1978年1月、3月、5月に「こたつで吠えろ 」のバンド名で演奏、4月に「ガセネタ 」、5月に「て 」として演奏、8月以降は「ガセネタ」(一度だけ「ガセネタの荒野」)として演奏を行なう[ 63] 。
1978年12月12日 - 生前「このバンドの為なら何でもする 」と語った間章 が逝去。山崎春美、灰野敬二 らが葬儀に出席。
1979年2月 - 吉祥寺マイナーで佐藤隆史 +工藤冬里 の共催によるシリーズコンサート「うごめく・気配・きず 」が4月初めまで毎週末に開催。灰野敬二 、白石民夫 、角谷美知夫 、金子寿徳 (英語版 ) らがイベントに出演し、ガセネタも連日のように出演する[ 39] 。
1979年3月 - 高杉弾 +山崎春美編集の伝説的自販機本 『Jam 』(エルシー企画 )が創刊。山崎の依頼で大里俊晴は音楽コラム「役立たずの彼方に」を、佐藤隆史 は「マイナー通信」を連載する。
1979年3月24日 - 「関西NO WAVE 」東京ツアー(24日~29日)のために上京していたINU (町田町蔵 )とウルトラ・ビデ (JOJO広重 )が「うごめく・気配・きず」にゲスト出演[ 26] [ 39] [ 64] [ 65] 。ガセネタと対バン を果たす。
1979年3月25日 - INUが「父ちゃんのポーが聞こえる」のカバー曲「ガセネタ 」を渋谷 ・屋根裏 のライブで演奏する(この音源は、後にINUの2ndアルバム『牛若丸なめとったらどついたるぞ! 』に収録された)。
1979年3月30日 - この日の「うごめく・気配・きず」をもってガセネタ解散。浜野は最後に「ええと、ガセネタは今日限りで解散しました 」とだけ語った[ 1] 。最終曲は「父ちゃんのポーが聞こえる」[ 16] 。その後、浜野純は不失者 にベース として参加する。
1979年4月 - 高杉弾がボブ・マーリー と邂逅する[ 66] 。
1979年10月14日 - 吉祥寺マイナーで佐藤隆史+白石民夫の共催による「剰余価値分解工場 」が始動。同イベントは1979年7月5日、8月19日、9月2日、10月14日、12月2日、翌1980年1月6日、2月3日、3月2日、4月6日、5月4日、5月18日、6月1日、8月17日、9月14日に吉祥寺マイナーで催されたほか、ナイロン100% (1980年4月20日)や法政大学 学生会館ホール棟11号室(1980年12月13日)でも行われた。
1980年頃 - 山崎春美を中心に不定形ユニット「TACO 」(タコ)が結成。
1980年6月、7月、12月に山崎春美が「タコ」のバンド名で演奏。5月に「イヤミ」、9月に「山崎春美としびれくらげ」、11月に「シビレクラゲ」として演奏を行なう。
1980年4月 - ニューウェーブ雑誌『HEAVEN 』(アリス出版 →群雄社出版 )創刊。引き続き高杉弾と山崎春美が編集にかかわる。
1980年2月6日 - 吉祥寺マイナーで佐藤隆史+白石民夫の共催による「愛欲人民十時劇場 」(通称:十時劇場)が始動[ 注 11] 。
1980年6月6日 - 『HEAVEN』創刊記念オールナイトイベント「天国注射の夜 」Vol.1が新宿アシベ会館 で開催。飛び入りで出演(乱入)した江戸アケミ がステージ上で自分の額をナイフで切りつけるパフォーマンスを行い、救急車 で運ばれる。
1980年9月 - 山崎春美のエッセイ「吉祥寺・マイナーのはみ出し者 ( パンクス ) たち アンダー・グラウンド・ロック現場報告 」が『宝島 』10月号に掲載(山崎春美著『天國のをりものが』に再録)。
1980年9月28日 - 吉祥寺マイナー「愛欲人民十時劇場―九月毎夜うごめくマイナーの気配、そして傷。 」最終日[ 68] [ 69] 。最後の出演者は山崎春美 (遅刻)。同日、吉祥寺マイナー閉店。「そして、この企画の実現を待たず、9月28日にマイナーは突然ぶっつぶれませり。合掌。 」(『宝島』10月号柱)
1980年10月 - 『HEAVEN』6号の「ディミニッシュ通信」No.2にて佐藤隆史が吉祥寺マイナーの閉店とピナコテカレコード の発足を報告。
1980年11月21日 - 新宿アシベ会館で「天国注射の夜」Vol.2が開催。
1980年12月 - ピナコテカレコードからオムニバスアルバム『愛欲人民十時劇場 』発売。山崎春美、大里俊晴、美沢真之助、山内正文、松本順正、高橋文子、ニシャコフスキーが「山崎春美グループ」名義で参加。特典付録はアルミ箔 に包んだ人間の大便 。
1981年3月 - 群雄社 ショック。明石賢生 の逮捕を受けて『HEAVEN』廃刊。
1981年3月1日 - INU の1stアルバム『メシ喰うな! 』がジャパンレコーズ よりリリース。
1981年8月15日 - 自販機雑誌『HEAVEN』&「HAVANA MOON」共催によるアンダーグラウンド・ロックイベント「天国注射の昼 」Vol.3が日比谷野外音楽堂 で開催[ 70] 。
1981年9月 - ピナコテカレコードから灰野敬二 の1stアルバム『わたしだけ?』発売。
1982年9月1日 - 山崎春美が「自殺未遂ギグ 」をplan-B で挙行。出刃包丁 で身体中を切り刻み、そのまま救急車で運ばれる。ドクターストップ 役は当時東京医科大学 の学生だった精神科医 の香山リカ が務めた。後に観客のいとうせいこう から「時間の無駄」と酷評される[ 71] 。
1983年1月 - ピナコテカレコードからTACOの1stアルバム『タコ 』発売。同作は3000枚までプレスされ、当時の自主制作としては異例の売り上げを記録するが、収録曲中の「きらら」「赤い旅団」の歌詞(作詞は山崎春美)に部落差別 と障害者差別 にあたる表現があるとの指摘を受け、佐藤隆史の判断で販売停止・自主回収となる。後に佐藤は部落解放同盟 や障害者団体とのやり取りをピナコテカレコードのフリーペーパー 『アマルガム 』や、その拡大版『インディペンデント・ジャーナル』に一方的な謝罪ではなく新たな議論を呼びかける形で公表した[ 72] [ 73] 。
1983年8月21日・9月17日 - 日比谷野外音楽堂で「天国注射の昼」Vol.4とVol.5が開催。
1983年10月 - ピナコテカレコードが活動終結を宣言[ 74] 。山崎春美編集の雑誌内雑誌『HEAVEN』終刊。
1984年 - この年、TACO が事実上の解散。山崎春美が事実上の絶筆。
1984年 - TACOの2ndアルバム『セカンド 』が北村昌士 の主宰するイースタン・ワークス・ディストリピューション から発売。1982年11月22日に法政大学学生会館 で行われたライブを収録した作品で、ステージに立ったのは山崎春美(Vo)、大里俊晴(Gt)、佐藤薫 (Dr)、野々村文宏 (P)の4人。
1984年1月21日 - 東映ビデオ からV.A.『天国注射の昼 』(Live at 日比谷野外音楽堂 1983.08.21 & 09.17)発売。
1985年1月20日 - 原宿クロコダイルでTACO(山崎春美+町田町蔵+大里俊晴)とHIGH RISE (南條麻人+成田宗弘+氏家悠路)が「宇宙人の春」「雨上がりのバラード」「社会復帰」「父ちゃんのポーが聞こえる」を演奏[ 75] 。
1987年7月1日 - 元TACO&だめなあたしのロリータ順子 (篠崎順子)が他界。
1992年9月 - 大里俊晴によるガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野 』が洋泉社 から出版。
1993年末 - 1978年春に明治大学 で録音された音源をもとにガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER 』がPSFレコード からリリース。当初は1991年8月発売予定だったが、後に1993年春発売予定になり、さらにその予定から半年以上遅れてのリリースとなった[ 76] 。
1994年3月 - 北村昌士 のSSEレーベル から、TACO の2枚のアルバムがカップリングでCD『タコ大全』としてリリースされる。しかし、町田町蔵 がゲストヴォーカルを務める曲「きらら」は差別用語 に自主規制音 が入り、また宮沢正一 や遠藤ミチロウ が参加した「赤い旅団」に至っては同じく自主規制として一切の情報が記載されないなど内容の不備があり、作品自体も山崎の許可を得ずにプレスされた海賊盤 であった。
1995年 - 山崎春美と北村昌士らによってTACO 再結成(のち解散)。
1996年12月 - 太田出版 発行『Quick Japan 』11号にて「山崎春美という伝説」特集。
1998年5月 - 元TACOの隅田川乱一 (美沢真之助)が他界。
2008年12月6日 - 元TACOの山本土壺 (山本勝之)が他界。
2009年2月20日 - 吉祥寺マイナー 周辺のミュージシャン の秘蔵音源を集めた園田佐登志編集のコンピレーション・アルバム 『すべてはもえるなつくさのむこうで─Early Works of Satoshi Sonoda 1977→1978 Memories of Yasushi Ozawa』がPSFレコードからリリース。
2009年11月17日 - ガセネタのベーシスト であった大里俊晴 が他界 。
2011年3月 - 『タコ』『セカンド』がCDで公式に再発売。
2011年7月20日 - ガセネタ10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX 』が山崎春美と佐藤薫の監修のもとディスクユニオン からリリース。また長らく絶版 だった大里俊晴著『ガセネタの荒野 』が月曜社 から復刊された。
2011年10月5日 - ガセネタの既発音源を再編集したアルバム『グレイティスト・ヒッツ 』がディスクユニオンから発売。
2011年11月23日 - 大里俊晴BOX『タカラネタンチョトタカイネ 』がディスクユニオンから発売。吉祥寺マイナーのイベント「剰余価値分解工場」「愛欲人民十時劇場」での即興演奏などを収録したCD5枚に加え、最後のソロ演奏を収録したDVD『間章に捧げる即興演奏』(2008年6月)を同梱。特別付録として「1978〜1980 吉祥寺マイナー界隈ファミリーツリー」付き[ 注 12] 。
2012年8月8日 - 初期TACOのサウンド面で大きな役割を果たした白石民夫 をフィーチャーした4枚組BOX『タコBOX Vol.1 甘ちゃん 』がディスクユニオンからリリース。当初は8枚組・税込8,400円で2012年3月21日に発売予定だったが、度重なる仕様変更と発売延期を経て、最終的に4枚組・税込5,775円でリリースされた。なお製造上の不備により3枚目と4枚目の収録内容が入れ替わっており、CD-3には「DISC4」、CD-4には「DISC3」と誤表記されている。
2012年8月11日 - 千葉 ・幕張メッセ で行われたDOMMUNE 主催のイベント「FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO」に新生TACO が出演。山崎春美、EP-4 の佐藤薫、非常階段 のJOJO広重 の3人編成に、鎖帷子レイコ(Vo)、藤井海彦(Gt)、多門伸(Dr)、まんぷく丸=辻元辰也(b)の4人が加わり、TACOとガセネタの楽曲(「仏の顔は今日も三度までだった」「社会復帰」「宇宙人の春」「嘔吐中枢は世界の源」「な・い・し・ょのエンペラーマジック」「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる 」)を演奏した。
2015年11月17日 - 東京 ・新宿LOFT で大里俊晴 の7回忌ライブ「SHINDACO~死んだ子の齢だけは数えておかねばならない 」開催。この日、バンド編成で36年ぶりにガセネタが再結成 。ロリータ順子 のパートは彼女と交遊があった戸川純 が歌った。
2015年11月25日 - 山崎春美と佐藤薫を中心とした1982年末以降の後期TACOの未発表音源をまとめた4枚組BOX『タコBOX Vol.2「8ナンバー」 』が両者の監修のもとディスクユニオンからリリース。『セカンド』に収められたオリジナル音源に加えて、1983年8月21日の日比谷野音 ライブ「天国注射の昼 」から9曲を収録。
2016年9月 - 吉祥寺マイナー周辺を取り上げた単行本 『地下音楽への招待』がロフトブックス から発売。
2018年4月25日 - 東京・新宿LOFTでワンマンライブ「ガセネタだけ(他なし)2018 」開催。
2018年10月21日 - 東高円寺 U.F.O. CLUBでアルバム先行発売ライブ「この世は もうじき おしまいだ オレたちゃ毎晩お祭りだ」を開催。同日、阿木譲 逝去。
2018年10月23日 - ガセネタ再解散[ 18] 。
2018年11月17日 - 新録アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25 』発売。ガセネタ結成40周年&大里俊晴没後9周年記念「ガセネタ徹底解析」トーク&レコード鑑賞がROCK CAFE LOFT is your room で開催[ 77] 。山崎春美が「ガセネタ」として単独出演。
2019年4月3日 - 東京・渋谷LOFT HEAVENで単発ライブ。ギター の代わりにコントラバス とピアノ が追加され、演奏形態がフリー・ジャズ となる。セットリストは「父ちゃんのポーが聞こえる 」のみ。アンコールでは「宇宙人の春」が演奏された。
2023年10月26日 - 東京・下北沢CLUB Queで行われたライブイベント「In Case vol.13」にて、computer fight+山崎春美が「社会復帰」と「父ちゃんのポーが聞こえる」の2曲を演奏[ 78] 。
2023年12月24日 - 東京・西荻窪FLATで行われた、computer fightとTACOによるツーマン自主企画ライブ「終わりなき日常を生きろ 」にて、computer fight+山崎春美が「社会復帰」を演奏[ 79] [ 80] 。
2025年5月11日 - 約6年ぶりに「ガセネタ」名義でのライブが実現[ 20] 。西荻窪FLATにて、computer fightとガセネタによるツーマン形式の自主企画ライブ「正しい傷つき/傷つけ方」内にてガセネタの楽曲が演奏された[ 8] [ 81] 。13期ガセネタは、山崎春美(Vo)を中心に、千川新(Gt)、田中喉笛(Ba)、畠山(Vo, Tp)というcomputer fightの3名に、田辺/チャック(Dr)を加えた5人編成。セットリストは「雨あがりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」の全4曲。
評価・分析
ガセネタは、1970年代末の東京アンダーグラウンド・シーンに登場した、日本における最も初期のハードロック ・バンドの一つである。その即興性と破滅的な演奏スタイルから、以降のハードコア・パンク に先行するような、高速でソリッドな演奏スタイルを特徴としているが、吉祥寺マイナー 周辺を取り上げた書籍『地下音楽への招待』(ロフトブックス )著者の剛田武は「ガセネタの音楽は“パンクよりも自由な世界へ”という『地下音楽への招待』のキャッチコピーがそのまま当てはまる」と述べ、当時のパンクとは異なる独自の次元を目指していたと評している。剛田いわく、ガセネタの演奏は「不失者 や光束夜 など同時代の地下音楽バンドと比べても、ひときわ性急なスピード感があり、いわゆる<パンク>に通じるが、凡百のパンクスを蹴散らす過剰な音数は、まったく異なる次元を指向していた」とし、吉祥寺マイナーのシリーズコンサート「うごめく・気配・きず」のマニフェスト「東京のパンクロックはその99%がニセ物だ 」[ 82] を、最も饒舌に体現していたのがガセネタであると評価している[ 17] [ 83] 。
大里俊晴 は、ガセネタのレパートリーがわずか4曲であった点に触れ、「僕らの演奏にはエンディングしかなかった」「僕らは、いつまでも終わり続けていた」と自著『ガセネタの荒野』で述べている[ 49] 。この「終わり続ける」演奏という認識は、音楽を「反復=再現可能性」から解放しようとする姿勢の表れであり、曲の冒頭から終末へと収束するのではなく、開始と同時に崩壊が始まるという独自の構造意識に基づいていた[ 49] 。大里はこうした演奏スタイルを、従来のロックやパンクの枠組みを超えた表現だったと自己分析している。
山崎春美 もまた「ステージへ立つ度毎に罵声とゴミクズと嘲笑がとんでくるのは毎回のおきまりごと。演奏がはじまるともう何もわからなくなる。それはもう歌じゃない、音楽じゃない、ましてやメロディーや言葉やリズムなんかじゃない……」として従来のロックの枠を逸脱したステージだったと述懐している[ 84] 。
近藤康太郎 は1stアルバム『SOONER OR LATER 』について「重い8ビート 、何もかもぶっ壊すスピードギター、情念ドロドロのボーカル。録音状態は極めてショボいが、気にならない。音の塊が耳をこじあけ、ズカズカと押し入ってくる」と評した[ 53] 。
音楽評論家 ・ライターの土佐有明 は、ガセネタの音楽について、従来のロックやパンクというよりも、むしろフリー・ジャズ に通じる混沌を内包していると評価している。特に、和声進行 をはじめとする既成のジャズ様式を解体したことで知られるオーネット・コールマン との類似性に言及し、彼の音楽が内面の情動を爆発的に表現した“ブルース ”でもあった点を踏まえ、ガセネタの音楽にも同様の性質が見られるとしている。土佐によれば、濃密な想念が無意識のうちに既存の様式を超え、最終的に形式そのものの解体に至る過程は、1stアルバム『SOONER OR LATER』にも明確に表れているという。形式上は3コードと8ビートという伝統的なパンクに則っているものの、「実体を持たない個人の過剰な想い」がそこに宿っており、その内的衝動が空気の振動を通じてリスナーに直接伝わってくると述べている[ 85] 。
伝説的自販機本 『Jam 』『HEAVEN 』のブレーンにして思想的中心者であった、元TACOの隅田川乱一 (美沢真之助)は、初期の録音について「音がハジケていて、とても開放感を感じましたね。僕が一番好きなパンクロック・バンドです」と語り[ 86] 、ジミ・ヘンドリックス やシャーマニズム 的次元との親和性を指摘している[ 87] 。
ガセネタを目撃した倉敷芸術科学大学 生命科学部教授の坂口卓也 は「まるでマルコム・ムーニー が居た頃のカン と、リー・ステファン 在籍時のブルー・チアー が合体し発情したが如き演奏」と評し、その加速度の代償として「10分の演奏でギタリストの両手が血ダルマになる」「8分でベース弦の殆どが切れる」という肉体的極限性を強調している[ 10] 。
写真家 の地引雄一 は「ガセネタって一見パンクなんだけど、もの凄くピュアな“ロックそのもの”って感じがする」と述べ、「若さゆえに出せる純粋さと挑戦的かつ尖った姿勢」が伝説性の背景にあると指摘している[ 88] 。
ラッパー のECD は、明治大学和泉校舎 で目撃したガセネタのライブについて「浜野のギターのボディーには弦で指を切ったのだろう、飛び散った血で赤く染まっていた」と回想しており、SS やフリクション のライブと並んで決定的な影響を受けたと述べている。翌日、ECDは山崎春美 に連絡を取り、演奏の録音テープの有無を尋ね、一本のカセットテープ を借り受けた[ 注 13] 。彼はそのテープを「伸びてしまわないか」と心配になるほど繰り返し聴いたという。その理由について「SSはまだ音源化されていなかったし、日本のパンク で他に聞くべきものがあるとも思えなかった」と語っている[ 27] 。
ウルトラ・ビデ としてガセネタと対バン したことがある非常階段 のJOJO広重 は、同バンドについて「とんでもない疾走感を持ったバンド」[ 55] 「一言で言えば、この世の終わりのようなムチャクチャなバンド」[ 55] 「とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていった、ロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド」[ 26] と評している。また「ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と、血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった」と述べ、特にギタリスト・浜野純 については「あっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒された」「まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ」と述懐しており、その破滅的な演奏スタイルと狂人じみたパフォーマンスから「こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだった」と強く印象づけている[ 26] 。
F.M.N. Sound Factory主宰者の石橋正二郎は、浜野の演奏について「なにか『全て』を獲得しようとしていると思った。多分その獲得しようとしている『全て』は弾いている本人にもわからないだろう。/でもその『全て』を獲得するためにのたうち回ってる」「負け戦と分かってるのに、しかも何が戦かも分からないのに、目指しているモノが何なのか分からないはずなのに、指先から血を吹き出しながら演奏し続けていたギタリストのその音は、とんでもなく『せっぱ詰まった』ものだった。後にも先にもあんなギターは聴いたことがない」とその衝撃を語っている[ 89] 。
音楽評論家の中山義雄 は、山口冨士夫 や裸のラリーズ に求められる「肉体の軋み」をそのまま音像化したロックとして、ガセネタを「日本のロック永遠の課題の模範解答」と高く評価した[ 25] 。
元雑誌フリーライターのアエリエルは、ガセネタを日本の初期パンク と重ねながらも「本人たちはハード・ロックの即興演奏バンドという意識こそあれ、パンク・ムーヴメントと関連づけられるのを意図的に避けていた」とし、むしろ「ダダイズム 的な即興演奏系ハード・ロックの極限化であり、発想はアート・ロック の系譜にある」と指摘している[ 90] 。
園田佐登志 は、浜野純 のギター・サウンドについて「あれは技術だと思う。完成されてる部分があって、あいつしか弾けないようなギターだった」と評し、そのメタリックな音色を高く評価している。一方で山崎春美 の言葉をまき散らすような歌い方については、フランス文学 の影響が感じられると述べ、「歌がうまいとかじゃない」「言葉は面白かった」と語っている。またメンバー3人(山崎・浜野・大里)は、いずれも現代文学 や現代思想 を含む多様な関心を日常的に持っており、それらが音楽活動の中で混成的に作用していたとする一方で「曲自体はワン・コードやスリー・コードの繰り返し」であり、「ある意味では陳腐」とも述べているが、山崎の言葉、浜野のギター、大里の安定したベースにより、ガセネタは特別なバンドであったと総括している[ 91] 。
工藤冬里 は『ガセネタの荒野』の書評で「ガセネタは荒野でもなんでもなかった。結局、残っているのは浜野のギターの一瞬だけだし、それは懺悔でも加速でもない、ただの歌だった」と、バンド「ガセネタ」を結論づけた[ 32] 。
このようにガセネタは、ジャンルに回収されることを拒む極端なパフォーマンスと音響で、1970年代末の日本アンダーグラウンド・シーンにおいて異彩を放った。日本のロック史においても、極めて特異な位置を占めるバンドである。
脚注
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 大里俊晴 『ガセネタの荒野』洋泉社 /月曜社
^ 赤田祐一 +松本亀吉 「特集/山崎春美という伝説─“自殺未遂ギグ”の本音」『Quick Japan 』Vol.11、赤田祐一編、太田出版 、1996年、106頁。
^ 「ガセネタとは大昔に一度だけ、ライヴで一緒になったことがある。日大芸術学部 の学園祭だった。狭い教室をライヴハウス代わりにするような、良くある学生達が行う催しだ。ガセネタの音はアヴァンギャルド 、サイケデリック と言われ、YouTubeにアップされている音源はモロにパンクだが、当時の僕の印象としてはフリー・ジャズ ならぬフリー・ロックという感じがした」東良美季「ガセネタの頃 」 - 東良美季 公式ブログ「毎日jogjob日誌」2009年11月21日付
^ 「でも、突然段ボール も含めると、ロック ・インプロヴィゼーション なんです。そこは違うところ。灰野 さんもそうだけど、延々とロックでインプロヴィゼーションをする。それは明らかに、いわゆるパンク・バンドとは違うじゃない? 演奏のなかに、瞬間的にインプロヴィゼーションの面白さ、即興演奏の面白さが入ってくるわけだから。それは、冬里 たちもそうでしょう?」剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、187頁。
^ a b c d e f g 【すべてはもえるなつくさのむこうで 〜 Early Works Of Satoshi Sonoda, 1977 - 1978】(Uploaded audio, Reviews, etc.) - 椅子物語 / chairsstory(園田佐登志 公式ブログ)
^ a b c KiliKiliVilla Official (2024年6月7日). “株式会社ミュージックマイン30周年 代表取締役社長CEO 天野秀起インタビュー ”. note . 2025年6月17日閲覧。
^ 赤田祐一+松本亀吉「特集/山崎春美という伝説─“自殺未遂ギグ”の本音」『Quick Japan』Vol.11、赤田祐一編、太田出版、1996年、100頁。
^ a b c “ガセネタ "父ちゃんのポーがきこえる, 宇宙人の春, 社会復帰" LIVE 2025/5/11 西荻窪FLAT ”. YouTube . 2025年5月24日閲覧。
^ a b 「和田くん、浜野純 さん、山本哲さんによる連続射殺魔は渡辺仁さんからの紹介 で園田佐登志さんが明治大学で主宰する『現代の音楽ゼミナール』に一時期参加する。そこには前衛的なフリー・インプロヴィゼーション 系の人たちが集まってきていた。浜野純さんは山崎春美 さん、大里俊晴 さんと究極までスピードを追求するガセネタというバンドを通過し、灰野敬二 さんの不失者 に参加することになる。和田くんが浜野純さんらと別れる経緯は知らないが、和田くんも『現音ゼミ』で何らかの影響を受けたのかもしれない。そこに集まった人たちがライブの拠点にしたのが吉祥寺マイナー だ」南部裕一「VOICE OF EDITOR #7 」 - SMASHWEST.COM(2021年1月1日)
^ a b 坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン 』23号、ロック・マガジン社、1979年5月、36-37頁。
^ a b 構成=河瀬奈瑛太「山崎春美への1001の質問!」『NOBODY』第36号、NOBODY編集部、2011年11月、134頁。
^ a b c d e ジャム出版 『Jam 』創刊号「TOKYO PUNK SCENE SCRAP―ガセネタ」(1979年3月)
^ ガセネタ『SOONER OR LATER 』帯のキャッチコピー
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない―山崎春美の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、362-363頁。
^ 山崎春美×渡邊未帆「再考一九七八──いま、間章を読むとはどういうことなのか/対談 山崎春美×渡邊未帆『間章著作集Ⅰ~Ⅱ』(月曜社)をめぐって 」『図書新聞 』2014年12月6日号(第3185号)1-2面。
^ a b c “ガセネタ Last Live at 吉祥寺マイナー「うごめく・気配・きず」1979.03.30「父ちゃんのポーが聞こえる」 ”. YouTube . 2023年7月15日閲覧。
^ a b 剛田武の地下音楽入門 第3回:ガセネタ - LOFT PROJECT
^ a b c @GASENETACO「お知らせがあります。これは関係者どころかメンバー誰一人にも知らせてませんが、別にいいでしょう。諸事情も含め今後の見通しについても、そして人間として何もかもアホらしくなったので、少なくとも一旦ガセネタは解散します。みなさん、どうも、さようなら。山崎春美 」2018年10月23日。X(旧Twitter) より2025年6月11日 閲覧。 Archived 2018年10月24日取得, at the Wayback Machine .
^ @Tabatamitsuru「山崎春美さんのTwitterの投稿で解散を知りました。そもそもその時、難波ベアーズにガセネタのライブをブッキングしようとして電話してたら、ベアーズのスタッフから「いま『解散する』ってTwitterに上がってますけど」と言われて気づいたという…。メチャクチャですなあw 」2024年10月7日。X(旧Twitter) より2025年6月11日 閲覧。
^ a b c d e 「2025年2月末頃、山崎春美さんにガセネタの出演を打診し、computer fightとガセネタの2マンとして企画を行うことを決定。/『次ガセネタやるときは僕らにやらせてください』と自分から言って(我ながら図々しい)、飲みの席ではあるが、春美さんもOKと言ってくれたのである。それで今回『春美さんと、computer fightのメンバー、computer fightのサポートドラムのチャックさんの5人で、ガセネタとして演奏してくれないか(させてくれないか)』と打診したのである。/既読がついてしばらく返信がなく少しヒヤヒヤしたが数日後快諾のメッセージが。『逡巡なくヤリタイと思います』とのこと。やった!ということで、本企画とガセネタが動き出した。ちなみにWikipediaによると、我々のガセネタは第13期の編成になるとのこと」千川新「5・11をふりかえって」(computer fight『5・11とはなにか』Bandcamp 購入特典PDF所載)
^ a b 『タコBOX Vol.1 甘ちゃん』(2012年・SUPER FUJI DISCS)ブックレットより
^ 山崎春美率いる伝説のバンド、TACOおよびガセネタが本格再始動 音楽ナタリー 2015年9月29日
^ 赤田祐一+松本亀吉「特集/山崎春美という伝説─“自殺未遂ギグ”の本音」『Quick Japan』Vol.11、赤田祐一編、太田出版、1996年、107頁。
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない―山崎春美の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、365頁。
^ a b c d 中山義雄「浜野純──You are so foolish man, my friend.」『ロック画報08』、ブルース・インターアクションズ 、2002年、86-87頁。
^ a b c d e JOJO広重 「さらばガセネタ」『NOBODY』第36号、NOBODY編集部、2011年11月、140-141頁。
^ a b c ECD 『いるべき場所』メディア総合研究所、2007年 (Kindle版, 位置No.全2459中 946-987 / 38-40%。ISBN 978-4944124268 )
^ ECD『いるべき場所』メディア総合研究所、2007年 (Kindle版, 位置No.全2459中 987-1008 / 40-41%。ISBN 978-4944124268 )
^ 佐藤隆史インタビュー「失敗ってわけじゃないよ。そうやって生きて来たんだもん―THE INDEPENDENT WAY 生き方としてのインディペンデント」地引雄一 編『EATER'90s インタビュー集: オルタナティブ・ロック・カルチャーの時代』K&Bパブリッシャーズ 、2012年9月、126頁。
^ 1992年頃『Sooner or Later』(ガセネタ)リリースに当たって(浜野純/葉書) - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
^ a b c d 園田佐登志 「70年代日本音楽シーンの地下水脈(1)~(3) 」『G-Modern』Vol.27 - 29、P.S.F. Records/Modern Music 、2007年 - 2010年。
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^ 1992年 大里俊晴『ガセネタの荒野』上梓にあたって(手紙) - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
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^ Watanabe Miho「Afterword」『Gaseneta Wasteland』大里俊晴著/加藤デビット・ホプキンズ訳、Public Bath Press社、2017年1月、163-166頁。
^ a b c d 丸宝行晴 「俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと」『役立たずの彼方に─大里俊晴に捧ぐ』オフィスOsato、2010年6月1日。
^ 「極度に気が弱いというか気が優しいので、学生たちの目を直視することができず、授業ではいつも黒いサングラスを着用していて、よれよれの着古した黒づくめの服にサンダル、黒メガネと長髪というのが彼のスタイルで、入試などの監督をさせると、それを見た受験生が目を白黒させているのが面白かった」室井尚 「追悼:大里俊晴君のこと 」 - 短信 Virtual Time Garden 2009年11月18日付
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜―白石民夫の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、127頁。
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^ 山崎春美 2017年2月22日付投稿 - Facebook
^ 山崎春美 2017年3月2日付投稿 - Facebook
^ @Osaka_Sakaguchi「もう44年程前の話だが、浜野純さんからガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」は Tangerine Dream のカバーだと教えて頂いた。それは多分 "Electronic Meditation" 収録 'Journey Through a Burning Brain' のことだと思う。8分45秒辺りからの展開がそうではないかと…。画像は、昨年の再発品。 」2022年3月12日。X(旧Twitter) より2022年3月19日 閲覧。
^ 山崎春美 2017年3月3日付投稿 - Facebook
^ 山崎春美 2017年3月4日付投稿 - Facebook
^ a b c d 大里俊晴追悼文集『役立たずの彼方に─大里俊晴に捧ぐ』における山崎春美の文章より
^ 構成=河瀬奈瑛太「山崎春美への1001の質問!」『NOBODY』第36号、NOBODY編集部、2011年11月、138頁。
^ a b c 大里俊晴『ガセネタの荒野』月曜社、2011年、158–159頁。
^ 吉祥寺マイナー のフリーペーパー 『アマルガム 』創刊号(1978年11月発行)所載。
^ 「余談だが未発表のガセネタのデビュー・テープのライナーは故間章 氏が筆を執る筈だった」(坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン 』23号、ロック・マガジン社、1979年5月、36-37頁。
^ 取材・構成=河瀬奈瑛太「佐藤薫インタビュー “とにかく〈場〉を作ることから始めた”」『NOBODY』第36号、NOBODY編集部、2011年11月、150頁。
^ a b 近藤康太郎 「快挙か暴挙か、伝説の『ガセネタ』復活」朝日新聞出版 『AERA 』1993年12月13日号、75頁。
^ ポストトゥルースの時代に考える「ガセネタ」に纏わる記号体系、「ガセネタ」における意味生成。宇川直宏(DOMMUNE) - ガセネタ公式サイト[リンク切れ ]
^ a b c ガセネタBOX - JOJO広重 旧ブログ「Alchemy Records Official Site」2011年7月20日付
^ 山崎春美率いるガセネタがアルバム発売、レパートリー4曲を何回も収録 音楽ナタリー 2018年9月28日
^ 坂口卓也 Facebook 2013年10月29日
^ 1979.02.01@吉祥寺マイナー 自主制作デモテープ/ガセネタ
^ INDEPENDENT STREAM.2「あの山崎春美が語るタコの全貌!」1983年1月1日 - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
^ computer fightの自主企画がライブアルバム化、山崎春美が率いるガセネタの曲も収録 - 音楽ナタリー 2025年6月5日
^ 「著者が当時足繁く通ったという“有象無象の、素性のしれない、どこか胡散臭い奴らばかりが集まっていた”『明大現音ゼミ』なる音楽団体や“チンピラ・ロック小僧”、“他に行き場のない、弱々しい、影のような人間たち”、“マッド・サイエンティストや現代音楽マニア”のたむろする『マイナー』というジャズ喫茶、その店主の『佐藤さん』などを、一切合切取り混ぜ記録してみせることで、70年代中期の東京の音楽シーンの特異な地下水脈と“乱脈な人脈”の一端をかいまみせている」菊田和郎「『ガセネタの荒野』〔洋泉社版〕書評」公益財団法人 音楽文化創造 『季刊音楽文化の創造―Quarterly creating music culture:CMC』4号、1997年3月、89頁。
^ 1979年 ガセネタ - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない―山崎春美の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、324頁。
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない―山崎春美の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、360頁。
^ 石橋正二郎「特殊音楽の世界23/特別編の3;林直人と青春の東京ツアー 」 - SMASHWEST(2019年10月1日)
^ 高杉弾「OUT OF HIGH TIMES」第1回「解禁」なんていらない。ぼくの気楽な隠居生活とガンジャのゆるやかな関係について。 - 超逸脱的オンラインマガジン《JWEbB》(高杉弾 公式ウェブサイト)
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜―白石民夫の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、128-129頁。
^ 1980年9月 毎夜うごめくマイナーの気配, そして傷 / 吉祥寺マイナー(b) - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
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^ 1981年8月15日 天国注射の昼 / 日比谷野外音楽堂 - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
^ 山崎春美 「自筆年譜」『天國のをりものが』河出書房新社 、2013年8月、366頁。
^ 1983年5月 AMALGAM #9 - p.4(佐藤隆史 / タコにまつわる部落差別問題) - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第3章「『場』と『状況』の創出―鳥井賀句の体験と記憶」ロフトブックス、2016年9月、84頁下段注釈。
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第1章「自由なる音楽とその空間―園田佐登志の体験と記憶(その1)」ロフトブックス、2016年9月、10頁下段注釈。
^ ガセネタ10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』CDディスク9の9-12曲目に収録。
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、187頁下段注釈。
^ 「ガセネタ徹底解析」トーク&レコード鑑賞 - LOFT PROJECT
^ computer fightと山崎春美、コラボライブよりガセネタのあの2曲が音源化 - 音楽ナタリー 2023年11月1日
^ 「終わりなき日常を生きろ」computer fight、山崎春美率いるTACOとツーマン - 音楽ナタリー 2023年12月18日
^ computer fight、自主企画でのライブ映像をフル尺公開 山崎春美とのコラボも収録 - 音楽ナタリー 2024年1月22日
^ computer fight、1年半ぶり自主企画はガセネタとツーマン - 音楽ナタリー 2025年3月16日
^ JICC出版局 『宝島 』1979年3月号「ホット・インフォメーション」内「アンダーグラウンドのロッカーたち」所載。
^ 【地下音楽入門】第3回:ガセネタ〜地下音楽の荒野の混沌と狂躁と饒舌 - A Challenge To Fate 2017年02月26日(剛田武のブログ)
^ 山崎春美『天國のをりものが 山崎春美著作集1976-2013』河出書房新社(初出:1978年11月発行『アマルガム』第1号)
^ 『ロック画報08』ブルース・インターアクションズ 、2002年。
^ 隅田川乱一、但馬オサム「天国桟敷の人々─隅田川乱一インタビュー」『Quick Japan』14号、154 - 167頁。
^ エルシー企画 『X-MAGAZINE 』第5号「Xランド独立記念版」(1978年12月発行)
^ 地引雄一 「『ガセネタ』と『TACO』2つの伝説・山崎春美」大洋図書 『実話ナックルズ ウルトラ』VOL.13(2021年3月31日発行)
^ F.M.N. SOUND FACTORY『ガセネタの荒野』2011年8月7日
^ アエリエル「日本のパンク・ロック!(3)・ガセネタ」2022年2月28日 人生は野菜スープブログ
^ 剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、186–187頁。
参考文献
関連文献
外部リンク