キュミエール=ル=モールトム
キュミエール=ル=モールトム (Cumières-le-Mort-Homme)は、フランス、グラン・テスト地域圏、ムーズ県のコミューン。 第一次世界大戦によって住民がいなくなった、『フランスに命を捧げた』(mortes pour la France)9つのコミューンのうちの1つである。 歴史1285年、トルヴェールのジャック・ブレテルは、シニー伯の依頼でショーヴァンシー・ル・シャトーの祭りが行われた話に何回か言及している。有名なショーヴァンシーの馬上槍試合の間、ヌヴィル、オルヌ、クルーエ、ロジエールとブリエと一緒にコラール(Colart)またはキュミエールのコラール(Collard de Cumières)がいたことが記されている。 ジャン・ル・クレールを含むクロード・ル・クレールの相続人たちは、1598年6月30日にキュミエールの領主権が与えられたことを確認した[1]。 1916年2月21日、雷のように轟く大砲がヴェルダンの戦いの始まりを知らせた。ヴェルダン地区に入っていたため、1916年5月29日にフランス軍はキュミエールを失い[2]、1917年8月20日に奪還した。だがフランス軍とドイツ軍双方からの容赦ない砲撃の下で、キュミエールは完全に消滅してしまっていた。 『第一次世界大戦で破壊されたフランスの村』(fr)の1つであるキュミエールは、二度と再建されなかった。終戦後に『フランスに命を捧げたコミューン』(fr)であると宣言され、この地で起こった出来事の記憶をとどめるためコミューンを維持し続けることになった。コミューンは現在、ムーズ県知事によって任命された3名の理事で構成される理事会が行政を行っている。 史跡![]() モールトムと呼ばれる場所には、第69歩兵師団の記念碑がある。これを建立したのは第69歩兵師団の退役兵である。彫刻家ジャック・フロマン・ムリスが、経帷子から姿をのぞかせる骸骨像を制作した。二本足で立つ兵士の骸骨は勝利の叫びをあげている。像は腕に旗を巻いているが、これは自らが国のために犠牲になったことを表している。そしてもう一方の腕で勝利の松明を掲げている。記念碑の基礎部分には、フランス兵の勝利を想起させる『彼らは通さなかった』(Ils n'ont pas passé)との碑文が刻まれている。 人口統計
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[3]、2004年以降INSEE[4][5]。 脚注
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