キングマン (1888年生の競走馬)
キングマン(Kingman、1888年 - 1893年)は、アメリカ合衆国で生産および調教されたサラブレッドの競走馬。1891年のフェニックスホテルステークス、ケンタッキーダービー、ラトニアダービーなどに優勝した。 生涯アルバート・C・フランクリン (Albert C. Franklin) がテネシー州ギャラティン近くに所有していたケネソー牧場 (Kennesaw Farm) で1888年に生産した[1][3]。当歳時にダドリー・アレン調教師が250ドルで購買し、ケンタッキー州ジョージタウンの実業家キンゼア・ストーン (Kinzea Stone) との共有としてジャコビンステーブル (Jacobin Stable) の所有名義で走ることになった[1][3][4]。ストーンはこの鹿毛の牡馬をカンザス州キングマンにちなんで「キングマン」と命名した[4]。 2歳時には大レースでの勝利はないが、ハイドパークステークス(Hyde Park Stakes、ワシントンパーク競馬場ダート6ハロン)などで2着に入っている[1]。 キングマンはケンタッキーダービーの前哨戦としてその直前の土曜日(1891年は5月9日)にKentucky Association racetrack[訳語疑問点]のダート1マイル+1⁄8で開催されていたフェニックスホテルステークス(現在のフェニックスステークス)に出走し、コースレコードにあと3⁄4秒まで迫る1分53秒+1⁄2の好時計で勝利した[3]。これはアメリカでの3歳馬による1マイル+1⁄8の新記録だったと言われている[1]。 第17回ケンタッキーダービーは1891年5月13日にチャーチルダウンズ競馬場のダート1マイル+1⁄2で開催された。当日は2万5千人近い大観衆が押し寄せ、スターターのジム・ファーガソン (Jim Ferguson) がスタート台へ行くのに警察の護衛が必要になるほどだった[1][3]。朝の時点で3頭が出走を取り消したため、4頭立てで争われることになった[3]。 アレンは騎手のアイザック・マーフィーに対して、レースで先手を取らないように「他馬が常歩で行ったら常歩で、駈歩で行ったら駈歩で」と指示したのだが、他の騎手たちも皆が同様の指示を受けていた[1][3]。その結果レース本番では、全員が手綱を引いて馬を抑え、4頭が横並びでスローペースで走るという異様な展開となった[1]。1マイル+1⁄4の地点で他の騎手が動き出したのを見たマーフィーも手綱を緩めて追い始め、2着馬バルゴワンに1馬身差をつけて優勝した[3]。勝ち時計2分52秒+1⁄4は1889年にスポケーンが樹立したレースレコード2分34秒+1⁄2[5]よりも17秒+3⁄4も遅く[3]、ケンタッキーダービー史上最も遅いタイムとなった[1][4]。 マーフィーは史上初となるケンタッキーダービー3勝を達成した[1]。アレンは史上6人目にして最後のアフリカ系のダービートレーナー、そして史上初にして唯一のアフリカ系のダービーオーナーとなった[3]。またテネシー州産馬によるケンタッキーダービー勝利は1879年のロードマーフィー以来2頭目であった[1]。 キングマンは5月23日のラトニアダービー(ラトニア競馬場・ダート1マイル+1⁄2)にも優勝し、ケンタッキー州の春の3つの大レース(フェニックスステークス、ケンタッキーダービー、ラトニアダービー)すべてで勝利した[3]。さらに6月20日のアメリカンダービー(ワシントンパーク競馬場・ダート1マイル+1⁄2)においても本命馬の1頭とみなされたが、ここでは前年のジュニアチャンピオンステークス勝ち馬ストレイスミース (Strathmeath) の3着に敗れた。 アメリカンダービーにおいて不良馬場で129ポンド(1着馬ストレイスミースより7ポンド、2着馬より14ポンド重かった)を背負って走ったためか調子を崩し、その後はハンデキャップ競走で1勝を挙げるに留まった[1]。 1891年9月26日にジャコバンステーブルが解散して所有馬がラトニアで競りにかけられると、キングマンはジョン・エドワード・マッデンに4600ドルで落札された[1]。1894年のブルックリンハンデキャップやサバーバンハンデキャップを目標にしていたが、出走することなく1893年に死亡した[1]。 血統表
出典
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