クリスティアン・ダニエル・ラウフ
![]() クリスティアン・ダニエル・ラウフ(Christian Daniel Rauch、1777年1月2日 - 1857年12月3日)は、ドイツの彫刻家である。 略歴バート・アーロルゼンでヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の従者の息子に生まれた。13歳でヘッセンで宮廷彫刻家、フリードリヒ・ファレンティン(Friedrich Valentin: 1752-1819)の弟子になり、その後、カッセルでヨハン・クリスティアン・ルール(Johann Christian Ruhl: 1764-1842)にも学んだ。 1796年に父親が亡くなり、翌年兄も亡くなったため、母親と弟を養うためにベルリンに移り、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の従者の仕事に就いた。1797年末にフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が亡くなり、その後は新王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の王妃ルイーゼに仕えた。余暇に彫刻を学び、ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(1764-1850)が校長を務めるプロイセン王立芸術アカデミーの夜間コースでも学んだ[1]。1802年に展覧会に作品を出展し、1803年にはシャドウの助手として働くことになった。 1804年に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の奨学金を得てローマに留学し、ローマで有力な学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトや新古典主義の彫刻家のアントニオ・カノーヴァ、デンマークの彫刻家のベルテル・トルバルセンらと知り合った。イタリアには6年間滞在し、ローマやカッラーラで働いた。 1810年に王妃ルイーゼが亡くなると、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの推薦でラウフがルイーゼの石棺の制作をし、この石棺は1815年ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿の霊廟に設置された。 ドイツに帰国後、有力者の多くの胸像やモニュメントマクシミリアン1世 (バイエルン王)を制作し、1819年にプロイセン王立芸術アカデミーの教授に任命された。同じ年に「石膏像工房(Gipsformerei)」の初代館長に就任し、ベルリン国立美術館に展示するための彫像の石膏コピーの制作を指揮した。彫刻作品の修復についてもアドバイスした。 ラウフの代表作であるフンボルト大学ベルリンの前にある「フリードリヒ2世騎馬像」は建築家のカルル・フリードリッヒ・シンケルとともに、1830年から計画を始め、1851年に落成した[2] 。 1853年にバイエルンマクシミリアン科学芸術協会勲章(Bayerischer Maximiliansorden für Wissenschaft und Kunst)を受勲した。プロイセンのプール・ル・メリット勲章を受勲し、ベルリンの名誉市民の称号も得た。 1857年にドレスデンで亡くなった。 作品
脚注
参考文献
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