クリスティーネ・マグダレーナ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=クレーブルク
クリスティーネ・マグダレーナ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=クレーブルク[1](ドイツ語:Christine Magdalena von Pfalz-Zweibrücken-Kleeburg, 1616年5月27日 - 1662年8月14日)は、バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ6世の妃。プファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールとカタリーナ・アヴ・スヴェーリエ(グスタフ1世の孫娘で、クリスティーネを通してヴァーサ朝とホルシュタイン=ゴットルプ朝およびベルナドッテ朝がつながる)の娘である[1]。クリスティーネ・マグダレーナはスウェーデン王カール10世の姉であり、スウェーデンで育った。 生涯クリスティーネ・マグダレーナはスウェーデンのニュヒェーピングで生まれ、一家は結婚から3年後の1618年にドイツに移った[1]。1622年、一家は三十年戦争から逃れるためスウェーデンに戻った。クリスティーネ・マグダレーナは「美しく感じの良い女性」と評され、スウェーデン王妃マリア・エレオノーラ・フォン・ブランデンブルクの友人であったと伝えられている[2]。クリスティーネ・マグダレーナは1631年にマリア・エレオノーラに同行しドイツに滞在していたスウェーデン王のもとに向かい、1633年にマリア・エレオノーラとともにスウェーデンに戻った[3]。1633年、ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルとの結婚交渉が失敗に終わった[4]。 1638年に母カタリーナが亡くなった後、クリスティーネ・マグダレーナはスウェーデン議会から王妃マリア・エレオノーラの娘で、後のスウェーデン女王クリスティーナの教育に携わるよう要請された。クリスティーネ・マグダレーナは1642年に結婚するまでこの役目を果たした。 クリスティーネ・マグダレーナの結婚交渉は1637年に始まり、1641年には「若くて裕福なハントリー侯爵」も候補となった。同年、後にバーデン=ドゥルラハ辺境伯となるフリードリヒ6世がスウェーデンを訪問し、クリスティーネ・マグダレーナの弟と友人となった後にクリスティーネ・マグダレーナの求婚者として受け入れられた[2]。 予定されていた結婚式の日である11月26日の前に舞踏会で火災が発生したため延期され、結婚式は1642年11月30日にストックホルムで行われた[1]。夫フリードリヒ6世はスウェーデン軍への入隊を希望したが、スウェーデン軍は外国の公子の入隊を望まなかったため、夫妻はドイツに移住した[2]。 1654年に弟カール・グスタフがスウェーデン王位に就き、1656年にカール・グスタフはクリスティーネ・マグダレーナにクッツェンハウゼンの領地を与え、クリスティーネ・マグダレーナに収入をもたらした[5]。クリスティーネ・マグダレーナは、1659年に夫フリードリヒ6世がバーデン=ドゥルラハ辺境伯位を継承し、クリスティーネ・マグダレーナは辺境伯妃となった。1662年に夫フリードリヒ6世は死去した。 ドイツにおいてクリスティーネ・マグダレーナは同時代人から良い評価を受け、「素晴らしい」人物であると評された[6]。 子女アドルフ・フレドリクからカール13世までの全てのスウェーデン王はクリスティーネ・マグダレーナの子孫である。フリードリヒ6世との間に8子が生まれ、うち2人はスウェーデン王家の先祖となる。
脚注
参考文献
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