グナイゼナウ (戦艦)
グナイゼナウ (Gneisenau, DKM Gneisenau) は、第一次世界大戦後にドイツ海軍が建造した戦艦。シャルンホルスト級戦艦の2番艦。艦名は、プロイセン陸軍軍人であり参謀本部の創設に尽力したアウグスト・フォン・グナイゼナウに由来する。 艦歴![]() 1934年12月8日にキールでドイチェヴェルケ社にて起工後、一時建造中止。1935年5月6日に建造再開、1936年12月8日に進水、1938年5月21日に竣工した。 開戦時は艦隊の指令長官ヘルマン・ベーム(ドイツ語版)大将の旗艦を務める。 1939年10月8日、ベーム提督の旗艦として軽巡洋艦ケルン、駆逐艦九隻と共に出撃するも英本国艦隊出撃を知り帰還。 1939年11月21日、シャルンホルスト、軽巡洋艦ケルン、ライプツィヒなどと共にヴィルヘルムスハーフェンを出撃。23日にフェロー諸島沖海戦に参加。ベーム提督の後任ヴィルヘルム・マルシャル大将の旗艦として英武装商船ラワルピンディをシャルンホルストと協力して撃沈。 1940年2月18~20日、ヴィルヘルム・マルシャル大将の旗艦としてシャルンホルスト、重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、駆逐艦二隻を率いて船団攻撃である「ノルトマルク作戦」でノルウェー沖へ出撃するも戦果は無かった。 1940年4月9日に「シャルンホルスト」と共に支援部隊としてナルヴィク沖海戦に参加、6月8日にはノルウェー沖海戦にも参加し、イギリス空母「グローリアス」、駆逐艦アカスタ、アーデントをシャルンホルストと協同して撃沈。 6月20日、イギリス潜水艦クライドにトロンハイム沖で雷撃され損傷した。修理完了後、12月28日にシャルンホルストとグナイゼナウは通商破壊作戦に出撃したが、悪天候のため引き返さざるを得なくなった。 1941年1月よりマルシャル提督の後任となったギュンター・リュッチェンス大将の旗艦としてシャルンホルストと共に2隻で通商破壊作戦(ベルリン作戦)に従事。2月8日、両艦はHX106船団を発見したが、直衛中の戦艦ラミリーズの姿を見て襲撃を断念した。3月8日、両艦はSL67船団を発見したが、戦艦マレーヤが護衛についていたために退避した。これらの戦艦はシャルンホルストとグナイゼナウよりも劣速だが、その巨砲は敵の接近を阻むのに充分で、イギリス側の無数の無言の勝利に貢献した[1]。 ![]() 4月6日、ブレストでイギリスのボーフォート雷撃機の雷撃を受け魚雷1本が右舷後部に命中し、大きな損害を受けた。4月10日、爆撃を受けて複数の爆弾が命中し、約50名の死者を出した。 1942年2月11日にツェルベルス作戦に「シャルンホルスト」、「プリンツ・オイゲン」と共に参加。小破したためキール軍港で乾ドックに入渠し、修理に入る。同年2月26日に連合軍機の爆撃を受け軍港内で被爆、火災が艦首の弾火薬庫を爆発させたため大破。ただし艦体部分の損傷は軽微で機関は無事だったので、自力航行能力は失われなかった[2]。その後、4月4日までに完全に外洋航行可能な状態にまで修理される[3]と、主砲塔を連装38cm砲に換装することになりポーランドのゴーテンハーフェンへ移動するが、1943年にバレンツ海海戦の敗報を受けたヒトラーの大型艦廃棄命令によって工事は中止、廃艦が決定する。搭載砲は陸に揚げられ要塞砲・海岸砲に転用された。3つの3連装主砲塔のうち、第1砲塔は単装砲に分割されてオランダに設置され、第2・第3砲塔は3連装砲塔のままノルウェーの要塞に設置された。 1945年3月28日ゴーテンハーフェンの閉塞船として曳航され、自沈。1947年に浮揚後、解体され、スクラップとして処分される。 上述、廃艦時に要塞砲に転用されたうちの第3砲塔(Orlandet要塞、現在は整備され旧要塞地は記念公園となっている)や、副砲塔が砲身とともに現存している。
艦長
同型艦同名艦
脚注
外部リンク |
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