グレート・メフィスト
ザ・グレート・メフィスト(The Great Mephisto、本名:James Ault[1]、1936年[3] - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。オハイオ州コロンバス出身[4]。ギミック上の出身地はサウジアラビア[3]。生年は1930年ともされる[5]。 ザ・シークの影響下にあるアラブ人ギミックのヒールとして、NWAの各テリトリーで活動した[4]。ジョージア地区ではアブドーラ・ザ・ブッチャーらのマネージャーも務めた[6]。 来歴父親はドイツ系ユダヤ人、母親はレバノンからの移民[5]。少年非行防止のためのスポーツクラブ施設にて、10代半ばからレスリングとボクシングのトレーニングを積み、草拳闘のボクサーとしてカーニバルの巡業に加わっていたこともあるという[5]。 デビュー当初は、地元オハイオのプロモーターだったアル・ハフトのもとで活動[5]。1960年より、フランキー・ケイン(Frankie Cain)のリングネームでテネシーのミッドアメリカ地区やノースカロライナのミッドアトランティック地区、オクラホマのトライステート地区など各地で活動。1963年12月、アリゾナ州ツーソンにてドン・ケントを破りアリゾナ・ヘビー級王座を獲得[7]。1965年7月13日にはテネシー州メンフィスにてマイク・クランシーと組み、トージョー・ヤマモト&ミツ・ヒライからミッドアメリカ版のNWA南部タッグ王座を奪取した[8]。 1966年下期、フロリダにてロッキー・スミスをパートナーに、自身はインフェルノ1号、スミスはインフェルノ2号を名乗り、ジ・インフェルノス(The Infernos)なる覆面タッグチームを結成[9]。同年10月6日、トーナメントを制してフロリダ版のNWA世界タッグ王座を獲得。以降もホセ・ロザリオ&エディ・グラハム、ロザリオ&サム・スティムボートなどのチームと同王座を争った[10]。1968年下期からはテキサスのアマリロ地区に参戦、9月26日にドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクを破り、テキサス西部版のNWA世界タッグ王者にもなっている[11]。 1969年12月よりフロリダにてメフィストと名乗り、ダンテことボビー・ハートとのタッグチームで活動[12]。翌1970年の下期からはグレート・メフィスト(The Great Mephisto)としてシングルプレイヤーに転じ、8月13日にヒロ・マツダを下してNWA南部ヘビー級王座を獲得[13]。9月18日にはファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[14]。以降もフロリダを主戦場に、マツダやジャック・ブリスコ、ボブ・ループ、グレート・マレンコ、ティム・ウッズ、ジョニー・ウォーカーらと抗争を展開した[15]。 1972年6月よりカリフォルニアのサンフランシスコ地区に進出し、ラーズ・アンダーソンやルーク・グラハムと共闘[16][17]。1973年2月17日にパット・パターソンからフラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座を[18]、4月25日にはキンジ・シブヤと組んでパターソン&ロッキー・ジョンソンからサンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座をそれぞれ奪取した[19]。同年下期からはフロリダに戻り、8月16日にポール・ジョーンズを破ってTV王座を獲得している[20]。 1974年1月15日にはダラス地区にてロザリオからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取、5月28日にレッド・バスチェンに敗れるまで戴冠し[21]、フリッツ・フォン・エリックやワフー・マクダニエルとも対戦した[22]。1975年はオーストラリアに遠征、同じアラブ人ギミックのスカンドル・アクバらを破り、NWA豪亜ヘビー級王座を2回獲得している[23]。以後、1970年代後半は古巣のフロリダやテネシーで活動。テネシーでは若手選手時代のロバート・ギブソンやテリー・ゴディなどと対戦した[24]。 1980年、ヒールのプレイング・マネージャーとしてジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに登場。アブドーラ・ザ・ブッチャー、マーク・ルーイン、トール・タナカ、キラー・カーン、マスクド・スーパースター、レイ・スティーブンス、トーア・カマタ、テリー・ゴディなどを担当し、スタン・ハンセン、ミスター・レスリング2号、トミー・リッチらベビーフェイス陣営との抗争を指揮した[6][25]。同年11月、ザ・シークのパートナーとして全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に来日[26]。開幕戦の後楽園ホール大会ではインフェルノス時代の旧敵ザ・ファンクス、最終戦の蔵前国技館大会ではジョージアでマネージメントしていたブッチャー&カマタと対戦した[27]。 その後は居住地のフロリダにてレフェリーを務める一方[4]、覆面レスラーのインフェルノ1号として、1980年代中盤まで試合にも時折出場していた[28]。2008年には日本のプロレス専門誌『Gスピリッツ』のインタビューにおいて、かつてオハイオ地区で邂逅した、アメリカ進出当時のカール・ゴッチのエピソードを語った[5]。2010年5月に重度の心臓発作に見舞われたが、一命を取り留めている[4]。 得意技獲得タイトル
脚注
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