Arms:Sable on a Bend Or between two Nags' Heads erased Argent three Fleur-de-lis of the field Crest:A Camel's Head erased Or bridled lined ringed and gorged with a Ducal Coronet Sable Supporters:On either side a Horse Argent bridled and gorged with a Ducal Coronet Sable pendant therefrom an Escutcheon Or charged with a Fleur-de-lis of the second
ペピス家には2つの系統に対して準男爵位が創設されている。そのうち、伯爵家の祖にあたるウィリアム・ペピス(1740-1825)は1801年に連合王国準男爵位の「(ウィンポール街の)準男爵(Baronet, of Wimpole Street)」を授けられている[2][3][4]。ウィリアムが1825年に没すると、長男ウィリアム・ウェラー(1778-1845)が準男爵位を相続した。
その弟チャールズ(1781-1851)は控訴院民事部記録長官を務めた法曹界出身の人物で、ホイッグ党の政治家としても二度に渡って大法官に就任している[3][5][6]。彼は1836年に「ケンブリッジ州コッテナムのコッテナム男爵(Baron Cottenham, of Cottenham in the County of Cambridge)」に叙されたのち[3][4][7]、1845年に兄ウィリアム・ウェラーが死去すると準男爵位を継承した。チャールズはさらに大法官在職中の1850年に「コッテナム伯爵(Earl of Cottenham)」に昇叙するとともに、併せて「サリー州クローハーストのクローハースト子爵(Viscount Crowhurst, of Crowhurst in the County of Surrey)」を授けられて伯爵家を創設した[3][4][6][8]。
他方、伯爵家の系統とは別に、医師ルーカス・ペピス(英語版)が1784年に「(ブルック街の)準男爵(Baronet, of Brook Street)」に叙されており[3][4][9][10]、これがペピス家に対して与えられたもう一つの準男爵位である。ルーカスはウィリアム・ペピスの弟にあたっており、準男爵位に対してもルーカスの男子が途絶えた場合は兄ウィリアムの子孫にも継承を認める特別継承権が付与されていた[9]。ルーカスののちは長男チャールズ(1774–1833)、次男ヘンリー(1783-1849)が準男爵位を相続した。
^Joyce Hemlow, ed.: The Journals and Letters of Fanny Burney (Madame d'Arblay). IV (West Humble 1797–1801) (London: OUP, 1973), pp. 180–181; Pepys family tree. In: The Journal of Emily..., p. 11.