コンスタンティノープルの宮殿
コンスタンティノープルの宮殿(コンスタンティノープルのきゅうでん、英語: Palace in Constantinople)は、中世の東ローマ帝国の帝都・コンスタンティノープルに存在していた宮殿である。 概要東ローマ帝国の首都となるコンスタンティノープル(Constantinople)は、当時のローマ皇帝がローマから自身の名を冠した新都市「コンスタンティノポリス」に首都を移転させた[注釈 1]。330年、コンスタンティヌス1世は自らと後代の皇帝が居住し、皇帝の居城とするための大規模なコンスタンティノポリス皇帝宮殿を建設する事を計画し、コンスタンティノポリスには大規模な宮殿の建設が併せて行われた。 その後も時のローマ皇帝テオドシウス1世が380年にコンスタンティノープルへと入城し、ここを居所と定めて生涯の多くをその宮殿で過ごすこととなった[1]。ローマ皇帝の居所とされたコンスタンティノープルの宮殿は、重要性を高めることになる。 ブラケルナエ宮殿の中には礼拝堂としてブラケルナエの聖マリア大教会と言う名の教会を初めとする教会も建てられた。 12世紀頃に東ローマ帝国歴代皇帝が主に好んで居住するようになったのはブラケルナエ宮殿であり、帝国後期のパレオロゴス王朝からは皇帝宮殿は放置されるようになった。 それに拍車をかけたのが、13世紀末の事件である。 ブラケルナエ宮殿は東ローマ、コンスタンティノポリス皇帝宮殿に代わって東ローマの宮廷として用いられた。オスマン帝国の皇帝メフメト2世は1453年にコンスタンティノープルを陥落させた際に市街地へ入り、その際にアヤソフィアやこの皇帝宮殿の荒廃ぶりを目の当たりにし、この世の権力の移ろいやすさを詠んだ次の対句を呟いた[2]。 コンスタンティノープルの陥落の影響により、現存しない。 ポルフュロゲネトスの宮殿は、皇帝の宮殿としての役割は失われた。 位置主に、宮殿は2つの宮殿地域に集中していた。その2つの地域とは、以下のとおりである。
その他にも、様々な宮殿がコンスタンティノープル内には点在していたという。 一覧
脚注注
参考文献
関連項目 |
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