サチン・テンドルカール
![]() 個人情報
| 本名
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Sachin Ramesh Tendulkar
| 生誕
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1973年4月24日(52歳) | ![]() 愛称
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リトルマスター、テンドリャ[1]、 ブラスター[2]、マスタブラスター[3]、[4]、リトルチャンピオン[5]
| 身長
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5 ft 5 in (1.65 m)
| 打撃スタイル
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右打ち
| 投球スタイル
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右投げ レッグスピン / 右投げ オフスピン
| 守備位置
|
バッター
| 代表情報
| 代表
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インド
| 初テスト(cap 187)
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1989年11月15日 対 パキスタン
| 最新テスト
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2013年11月14日 対 西インド諸島
| 初ODI(cap 74)
|
1989年12月18日 対 パキスタン
| 最新ODI
|
2012年3月18日 対 パキスタン
| ODI背番号
|
10
| 初T20I(cap 11)
|
2006年12月1日 対 南アフリカ
| 所属チーム
| 年
|
チーム
| 1988
|
![]() 1988–2013
|
![]() 1992
|
![]() 2008-2013
|
![]() 選手成績
| 試合
|
テスト
|
ODI
|
FC
|
LA
| 出場試合
|
200
|
463
|
310
|
551
| 得点
|
15,921
|
18,426
|
25,396
|
21,999
| 打率
|
53.78
|
44.83
|
58.84
|
45.54
| 100s/50s
|
51/68
|
49/96
|
81/116
|
60/114
| 最高得点
|
248*
|
200*
|
248*
|
200*
| アウト数
|
4,240
|
8,054
|
7,605
|
10,230
| ウィケット数
|
46
|
154
|
71
|
201
| 防御率
|
54.17
|
44.48
|
61.74
|
42.17
| 1イニング5ウィケット
|
0
|
2
|
0
|
2
| 1試合10ウィケット
|
0
|
0
|
0
|
0
| 最優秀投手成績
|
3/10
|
5/32
|
3/10
|
5/32
| 捕球/スタンピング
|
115/–
|
140/–
|
186/–
|
175/–
| 出典: [1] - 2019年7月10日時点
|
概要![]() クリケットの長い歴史の中でも最も偉大な選手の一人とみなされている。テスト・クリケットで史上最多の通算15,921得点(ラン)、ODI(ワン・デイ・インターナショナル)方式で史上最多の通算18,426得点を記録。テストとODIの合計で3万得点を越えている世界で唯一の人物である。また最高峰の世界選手権に位置づけられているクリケット・ワールドカップで史上最多の通算2,278得点。1試合100得点以上のセンチュリー (クリケット)がテストで史上最多の通算51回、ODIで史上最多の通算49回であり、合計で100回を記録した。1989年に弱冠16歳でインド代表としてテストとODIデビュー。2013年に40歳で現役を引退した[8]。 2002年にクリケットのバイブルとして知られるウィズデン・クリケッターズ・アルマナックによって、歴代でドナルド・ブラッドマンに次ぐ2番目に偉大なテストバッター、ODIバッターにおいてもヴィヴ・リチャーズに次ぐ2番目に偉大な選手と評価された[9]。キャリア晩年や引退後の評価では、ブランドマンやリチャーズを上回り、史上最高のバッターとの評価を受けることも多い[10][11]。2010年にアメリカのタイム誌によって、世界で最も影響力のある100人に選出された[12]。2013年にウィズデン・クリケッターズ・アルマナックによって、150年間の歴代ワールドイレブンに選出された[13]。 国民からも大変な尊敬を受けており、2014年にはマザー・テレサも受賞歴のあるインドにおいて民間人を讃える褒章としては最高の栄典であるバーラト・ラトナ賞を受賞[14]。ほかにもインドスポーツ界において最高栄誉であるラジーヴ・ガンディー・ケール・ラトナ賞等受賞した[15]。X(旧Twitter)公式アカウントのフォロワー数は4000万を超えており、世界のスポーツ選手の中でクリスティアーノ・ロナウド、ヴィラット・コーリ、ネイマール、レブロン・ジェームズに次いで5番目に多い(2024年現在)[16]。 略歴兄の紹介によりクリケットをはじめ、11歳でカンガクリケットリーグでクリケット選手としてデビュー、1989年11月5日、16歳でパキスタンとのテストマッチでインド代表としてデビューを果たすと、その後主に、ムンバイクリケットチーム、インド代表として活躍していた。インド代表としては2011年にクリケットワールドカップの決勝でスリランカを破り優勝した。2013年にクリケット界から引退。2019年にはICCクリケット殿堂入りした。 経歴1973年、大学の教師をしていた作家で詩人のラメッシュ・テンドゥルカルと、保険業界で働いていた母ラジニの間に生まれた。父の好きだった作曲家サチン・デヴ・バーマンにちなんで命名された。9歳のとき、学校のチームでクリケットを始めた。彼のコーチは、サチンがボールを強く打つことを好むと認識していたため、バッツマンとして起用された。11歳で1イニング50ランを記録し、翌年のインド学校選手権ハリス・シールドで初のセンチュリーを達成した。13歳のとき、学校対抗戦で2336ランを記録し、その中には数々のセンチュリー跨ぎや2度のダブルセンチュリー(1イニング200ラン)も含まれていた。これがボンベイのセレクターの目に留まり、1987年11月14日にテンドルカルをトレーニングに招いた。その後、時々チームの代役として起用されたが、当初はレギュラー選手ではなかった。 代表経歴1999クリケットワールドカップ1999年のクリケット・ワールドカップの最中に、テンドルカールの父が死去し、父の最後の儀式に出席するためインドに戻り、ジンバブエとの試合を欠場した。しかし、復帰したクリケットケニア代表との試合では16本のバウンダリーと3本のシックスを放ち101球で140ランを記録し、父親に捧げるセンチュリーを達成した。 2003クリケットワールドカップ2003年のクリケット・ワールドカップでは11試合に出場、673ラン2ウィケットを記録し 、インドの決勝進出に貢献した。大会はオーストラリアが優勝したが、テンドルカールは大会最優秀選手賞を受賞した。 2007クリケットワールドカップテンドルカールとラーフル・ドラヴィド率いるインドクリケットチームは散々な結果に終わった。大会前からスランプだったテンドルカールはバングラデシュ戦では7得点、スリランカ戦では0得点しか得点できず、インド代表はグループステージ敗退を喫した。その結果、元オーストラリア代表キャプテンのイアン・チャペルは、新聞のコラムでテンドルカールに引退を求めた。 バングラデシュ戦とスリランカ戦の敗戦後、テンドゥルカルはうつ病を患い、クリケットから引退しようと考えたが、ヴィヴ・リチャーズとアジット・テンドゥルカルがそれを止めた。テンドルカールによると、2007年3月23日、バングラデシュ戦の敗戦は彼のクリケット人生で最悪の日のひとつだという。 2011クリケットワールドカップ2011クリケットワールドカップではテンドルカールは9試合で合計482ランを記録し、インド代表は2度目となる優勝を果たした。 プレイスタイルとキャリア統計テンドルカールはクロスドミナンスであり、バッティング、ボウリングは右手で使うが、ペンなどを書くときは左手で使う。ESPNcricinfoのとあるコラムニストは彼のことを「同時代で最も健全なバッツマン」と評している。彼のバッティングは、不必要な動きや派手さを抑えながら、完全なバランスと冷静さに基づいており、クリケット史上最高の選手と称されるドナルド・ブラッドマンとスタイルが似ている。南アフリカやオーストラリアなどの硬くて弾むクリケットピッチで何度もセンチュリーを達成している。また、絵に描いたような完璧なストレートドライブ(野球でいうセンター返しのようなもの)でも有名である。
エピソード
栄典インド政府![]()
インド地方政府
画像
脚注
注釈
外部リンク
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