5700 South Lake Shore Drive (at East 57th Street), Chicago, Illinois, U.S., 60637
アクセス
CTA Bus routes: Routes 6 and 28 (to 56th Street and Hyde Park Boulevard) Route 10 (to Museum of Science and Industry) Route 55 (to Museum of Science and Industry) メトラ Train: 55th–56th-57th Street Station (between Stony Island and Lake Park Avenues)
2007年の入場者数はシカゴの文化施設の中で2番目[2]。1998年以来、館長はデビッド・モセナ(David R. Mosena)が務める。
歴史
1893年開催のシカゴ万国博覧会におけるパレス・オブ・ファイン・アーツ(ファイン・アーツ・ビルディングとしても知られる)は、チャールズ・アトウッド(Charles B. Atwood)設計で、絵画や彫刻といった美術品の展示場として使われた。同万博は白く塗られた古典建築の建物から「ホワイト・シティ」の愛称が付いていたが、そのほとんどが木造を焼石膏で覆った造りだった中、パレス・オブ・ファイン・アーツはそれら他の建物と異なり漆喰塗りの煉瓦造りだった。そのため、万博終了後の大火事でほとんどの建物は焼失したが、この建物だけは無事だった。
初代館長は、米国中の調査の結果、ローゼンウォルドの構想を共有するウォルデマー・カエンプフェルト(Waldemar Kaempffert)が理事会によって選任された。ニューヨーク・タイムズ紙の科学部門編集長であったカエンプフェルトは、キュレーターを組織し展示物の編成及び構築を開始した。デザインと準備のために、カエンプフェルトと職員達はミュンヘンのドイツ博物館、ロンドンのサイエンス・ミュージアム、ウィーンの技術博物館(Technisches Museum Wien)を訪問し、この3館がシカゴ科学産業博物館のモデルとなった。またカエンプフェルトはシカゴ大学理学部と緊密な関係を築き、多くの展示奨励金を得ることにも貢献した。しかし展示の目的や中立性、職員のマネジメントについて2代目の理事長と対立するようになったカエンプフェルトは、1931年初めに館長を辞職する。
向かいの側の池の中州(Wooded Island)は、同じく1893年のシカゴ万博に参加した日本館があった場所で、改装されていはいるが日本庭園が残されている。この庭園はシカゴの姉妹都市である大阪市が1993年に姉妹都市締結20周年事業として25万ドルを投じて修復されたのを機に「大阪ガーデン」(Osaka Garden)と命名された[8] が、2014年に「The Garden of the Phoenix(鳳凰庭園)」と改名された[9]。
^“Crain's List Largest Tourist Attractions (Cultural): Ranked by 2007 attendance”. Crain's Chicago Business (Crain Communications Inc.): p. 22. (2008年6月23日)