レイカーズは3年連続 (2000年(英語版)、2001年(英語版)、2002年(英語版)) でNBAチャンピオンに輝き、2004年(英語版)にもNBAファイナルに進出した。オニールはそれぞれの優勝でNBAファイナルMVPに選ばれたが、彼ら2人の個人的な相違やレイカーズでのそれぞれの役割をめぐる論争が続いた後、シャックがマイアミ・ヒートにトレードで移籍し、ブライアントがレイカーズとフリーエージェントとして再契約を結んだ。レイカーズのヘッドコーチであるフィル・ジャクソンはこれらの出来事をコービーとシャックが一緒に過ごした最後のシーズンに起きたトラブルを振り返りながら、2004年に『The Last Season: A Team in Search of Its Soul』という本を出版している。
ロックアウトで50試合しか行われなかった1998-99シーズンには、デニス・ロッドマンが短期間在籍し、ハリスヘッドコーチが解雇され、元レイカーのカート・ランビスが暫定ヘッドコーチとして務めた。ロックアウトの間、オニール、ブライアント、デレク・フィッシャー、コリー・ブラント(英語版)らは、2対2の形式で試合を行っていた。ブライアントは練習中いつも体を張っていたが、他の選手たちはブライアントの練習への取り組み方を嫌っていた。その後フィッシャーは、「あれは本当に、みんながやるべきプレーだったんだ。コービーの精神で」と話している。試合中にオニールはブライアントを平手打ちしたが、フィッシャーはオニールもブライアントも本当に喧嘩を始めたのではなく、二人とも体当たり的な行為をしていたのだと言った[13]。シーズン中、チームは自分たちの問題はブライアントの自分勝手なプレーのせいだと考えていた。ある時、オニールがブライアントを指差して、ロッカールームで記者に「問題があるんではないでしょうか? (There's the problem) 」と言ったことがあった[14]。南カリフォルニアのスポーツ用品店では、ブライアントのジャージがオニールのジャージより売れており、オニールがオーランドで一緒にプレーしていたペニー・ハーダウェイの時と同様に嫉妬しているという噂が流れた。「それは真実からかけ離れているフェイクだよ!」、「シャックがしたいのは勝つことだけだ喧嘩は良くないよね」とフィッシャーは語った[15]。インタビューでブライアントの成長の苦しみを手助けしたかと聞かれたオニールは、「あまり人を助けないようにしている」と答えた。「経験こそが最高の教師だ。コービーは偉大な選手だ。彼は新進気鋭の若手だ」と答えた[15]。オニールはランビスがブライアントに好意的だと思っていたため[16]、ランビスがベテランのチームリーダーであるオニールに、溝を癒してブライアントと話をしてほしいと頼んだ時、オニールに"無表情で冷たい視線"を向けられたという[17]。オニールとブライアントの溝は、プレーオフでも続き、その年のプレーオフの1回戦でレイカーズはヒューストン・ロケッツに勝ったものの、2回戦ではサンアントニオ・スパーズにシリーズ4勝0敗で完敗したのである[18]。
^“History of the Lakers”. NBA.com. 2010年7月17日閲覧。 “The arrival of Shaquille O'Neal necessitated the trading of longtime center Vlade Divac, and the trading or renouncement of several other veterans”