シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧以下はユトランド半島南部に存在したシュレースヴィヒ(スレースヴィー)およびホルシュタイン(ホルステン)の統治者の一覧である。統治者の大半は公爵位にあった。両地域が19世紀にプロイセン王国に併合されて以後、シュレースヴィヒおよびホルシュタイン公爵の称号は名目的なものとなった。 シャウエンブルク家→「シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯」を参照
シャウエンブルク家の領したホルシュタイン伯領は何度か分裂を経験し、6つの家系に分割されたこともあった。1386年、デンマーク王オールフ2世とその母親の摂政マルグレーテ1世は、ホルシュタイン=レンズブルク伯ゲルハルト6世とその子孫にシュレースヴィヒ公国を与えた。ゲルハルト6世はシュレースヴィヒ公としてはゲアハー2世と称した。1390年までに、レンズブルク伯爵家はホルシュタイン=ピンネブルクを除く他のホルシュタイン伯領を自領に統合した。ホルシュタイン=ピンネブルク伯領は家系が断絶する1640年まで他のホルシュタイン地域とは統治者を異にしていたが、その後はホルシュタイン公国に併合された。
オルデンブルク家(1460年 - 1544年)→「オルデンブルク家」を参照
デンマーク王クリスチャン1世はアドルフ1世(8世)の死後、デンマーク王冠の属領であるシュレースヴィヒ公国を自分の統治下におき、またアドルフの母方の甥である関係から、ホルシュタイン伯領(当時は神聖ローマ帝国のザクセン=ラウエンブルク公国の属国だった)をも相続した。1474年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世はホルシュタイン伯を公爵に昇叙した上で、ホルシュタイン公爵とザクセン=ラウエンブルク公爵の間の主従関係を解除し、ホルシュタイン公を皇帝の直臣(帝国直属身分)とした。
シュレースヴィヒとホルシュタインにおけるオルデンブルク家とホルシュタイン=ゴットルプ家の共同統治1533年から1544年まで、デンマーク王クリスチャン3世は、未成年だった異母弟ハンス老公とアドルフを名目上の共同統治者としつつ、シュレースヴィヒおよびホルシュタイン公国を単独で統治していた。1544年に三兄弟はホルシュタイン公国(神聖ローマ帝国の封土)とシュレースヴィヒ公国(デンマーク王国の封土)を分割相続した。このとき三兄弟は地域が分断されることに反対する両公国の等族たちと長い交渉を経て、領土分割を実現した。三兄弟はもう一人いる末弟フレゼリクに関しては、神聖ローマ帝国内のルター派司教領の監督職に就けて、世襲領を分け与えないことを決めた。 3つの公爵領はそれぞれの歳入が三等分になるように調整されて分割されており、特定の地域や荘園などは三等分になるようそれぞれ割り当てられていたが、都市税や関税などは一度に集められたものを三兄弟で分け合っていた。領地を歳入に合わせて分割したため、シュレースヴィヒとホルシュタインの内部に出来た3つの公爵領はそれぞれがパッチワーク状に分裂していた。ただしこの様な形での分割は、さらなる分割を防ぎたい両公国の等族たちの思惑によって成立したものであった。歳入に合わせた領土分割によって出来た各公爵領では、諸勢力が蜂の巣状に割拠していた。シュレースヴィヒとホルシュタインに同時に存在する3人の公爵たちは、全員が「シュレースヴィヒ、ホルシュタイン、ディトマルシェンおよびストルマルンの公爵」の称号を名乗っていた。 クリスチャン3世の二番目の弟であるアドルフはゴットルプ(ゴットープ)に居を構え、より明確に他の兄弟と区別するために「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公」と呼ばれた。彼の子孫はデンマーク王家オルデンブルク家の分枝であるホルシュタイン=ゴットルプ家を創設した。以下に示される歴代のデンマーク王とホルシュタイン=ゴットルプ家の公爵は、シュレースヴィヒとホルシュタインの二公国に対しては共同君主として振る舞っていたが、実際には明確に分けられたそれぞれの領地から歳入を得ていた。クリスチャン3世のすぐ下の弟ハンス老公は「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ハーデルスレーベン(ハザスレウ)公」と呼ばれていたが、子供を残すことが出来ず、1代で断絶した。 またクリスチャン3世の末息子のハンス若公も、1564年にシュレースヴィヒとホルシュタインに公爵領を与えられた。ハンス若公は両公国内のデンマーク王領の3分の1を得たため、歳入としては両公国全体の9分の1を得ることになった。しかしハンス若公に始まるゾンダーブルク家の公爵たちは、ホルシュタイン=ゴットルプ家とは違い両公国の共同君主の地位を得ることは出来なかった。 1580年にハンス老公が死ぬと、甥のフレゼリク2世王と弟アドルフがその遺領を等分して相続したため、シュレースヴィヒとホルシュタインにおけるデンマーク王の歳入はさらに6分の1増えることになった。二つの別々の公国に歳入上の分割を導入したことは、神聖ローマ帝国とデンマークに別々に臣属しているという法的地位の違いを越えて、両国をより不可分な関係にしていくことにつながった。
オルデンブルク家のシュレースヴィヒ単独統治とホルシュタインにおけるオルデンブルク家、ホルシュタイン=ゴットルプ家の共同統治
オルデンブルク家(1773年 - 1863年)→「オルデンブルク家」を参照
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(1863年 - 1865年)
名目上の公爵プロイセン王国政府はホルシュタインとシュレースヴィヒを併合後、オルデンブルク家の家長を両公国における陪臣の公爵として認めた。以後、シュレースヴィヒおよびホルシュタイン公爵はプロイセン貴族となった。
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