シーム・デ・ヨング
シーム・デ・ヨング(Siem de Jong、1989年1月28日 - )は、スイス・ヴォー州・エーグル出身のオランダ人元サッカー選手。現役時代のポジションはMF。 弟は同じくサッカー選手のルーク・デ・ヨング。 経歴クラブヘルダーラント州のドゥーティンヘムにあるアマチュアクラブDZC'68でプレーしていたときに地元のプロクラブであるデ・フラーフスハップにスカウトされた。このとき2001年、わずか12歳だった。ドゥーティンヘムではフース・ヒディンクやクラース・ヤン・フンテラールと同じhet Rietveld Lyceumという公立学校に通い、大学入学資格を与えられた。2005年までデ・フラーフスハップのユースでプレーし、それからアヤックス・アムステルダムのユースに引き抜かれた[1]。 18歳でヘンク・テン・カテ監督率いるトップチームに昇格し、19歳のときにアヤックスとの契約を2013年6月まで延長した[2]。2007年9月26日、アマチュアリーグに所属するコザッケン・ボーイズ戦で途中出場し、トップチームでの初出場を飾った。エールディヴィジの試合にはアウェイでのスパルタ・ロッテルダム戦で初出場した。途中出場だったが、ロスタイムに同点弾を決めた。2007-08シーズンはリーグ戦で20試合以上出場した唯一の10代選手だった。ヴィレムII戦で全治2ヶ月の負傷を負い、3月16日からのハードな対戦(アウェイでのPSVアイントホーフェン戦、アウェイでのFCトゥウェンテ戦、アウェイでのSCヘーレンフェーン戦)への出場を逃した。4月上旬に復帰し、デ・フラーフスハップ戦でエドガー・ダーヴィッツに代わって途中出場した。2007-08シーズンは国内リーグ・国内カップ・欧州カップ戦に合わせて28試合に出場して2得点した。 2008年夏にクラブは史上最高金額でFWミラレム・スレイマニを獲得したため、デヨングは主に彼の控えという位置づけで、10試合しか出場しなかった。2009-10シーズン序盤は4-4-2フォーメーションを採用したためにポジション獲得は成らなかったが、チームが後半戦に4-3-3フォーメーションを採用すると、22節のFCトゥウェンテ戦で優勝を争うライバル相手にシーズン初得点を決めた。フィテッセ戦、ヘラクレス・アルメロ戦、NECナイメヘン戦で1試合2得点を決め、また26節から29節まで4戦連続ゴールを決める活躍で、終盤の14連勝に大きく貢献した。リーグ優勝こそならなかったが、自己最多の10得点を挙げて成長を印象付けた。フェイエノールトとのKNVBカップ決勝第1戦では開始7分で2点を奪い、勝利を決定づけた[3]。 2014年7月1日、イングランド・プレミアリーグに所属するニューカッスル・ユナイテッドFCへの移籍が決定する[4]。 2016年8月23日、PSVアイントホーフェンにレンタル移籍した[5]。 2017年8月28日、アヤックスに復帰した[6]。契約期間は3年間。 2018年8月23日、シドニーFCに1年間のレンタルで移籍した[7]。 2020年12月4日、SCヘーレンフェーンに移籍した[9]。 2022年6月26日、デ・フラーフスハップに移籍した[10]。 2023年5月18日、現役引退を表明した[11]。 代表2007年春にオランダU-19代表に初選出され、2-0で勝利したチェコ戦で初出場した。UEFA U-19欧州選手権2007年大会予選では3試合に出場したが敗退した。U-19欧州選手権2008年大会予選では3試合に出場してそのうち2試合で得点した。2-0で勝利したジョージア戦では83分に得点し、1-3で敗れたノルウェー戦では15分に得点した。オランダU-19代表では通算6試合に出場した。 2007年11月12日、マケドニア共和国戦のためにフォッペ・デハーン監督率いるオランダU-21代表に招集された。11月16日に試合が行われ、17日には監督がデ・ヨングに対して「もはやU-21代表ではない」と述べた。しかし2008年2月5日、北京オリンピックに招集すると発言した。イタリアとの親善試合に招集されたが、前述の怪我により3-0で勝利したエストニア戦には出場できず、代役としてジョナサン・デ・グズマンが出場した。4月上旬に復帰し、再びチームに戻ったが、北京オリンピック出場は叶わなかった。 2010年8月11日のウクライナとの親善試合においてA代表初招集、初出場を果たした。2013年6月7日のインドネシアとの親善試合で代表初得点を含む2得点を挙げた。 所属クラブ
個人成績代表での得点
タイトル
脚注
外部リンク
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