ジョン・ホワイト・アレクサンダー
ジョン・ホワイト・アレクサンダー(John White Alexander、本名 John White、1856年10月7日 - 1915年5月31日)はアメリカ合衆国の画家、イラストレーターである。 略歴ペンシルベニア州のアレゲニー郡に生まれた。両親を早く失い、ピッツバーグで、祖父母に育てられた。12歳から電信会社の下働きをし、雇い主がホワイトの絵の才能を見出した。1974年にニューヨークに移り、週刊誌、「ハーパーズ・ウィークリー」の挿絵画家、風刺漫画家の見習いとして働いた。ニューヨークで、トーマス・ナスト、エドウィン・オースティン・アビー、ジョゼフ・ペネル、ハワード・パイルといった有名なイラスレーターたちと知り合った。3年の後、フランク・ドゥフェネクに学ぶために、ミュンヘンに渡った。資金が足りないので、学生を止めて、ドゥフェネクの手伝いとして働いた。1879年にドゥフェネクと弟子たちと一緒に、ヴェネツィアとフィレンツェを旅し、ヴェネツィアにいたジェームズ・マクニール・ホイッスラーやオットー・ヘンリー・バッチャーなどのアメリカ出身の画家たちにも出会い版画の技術も学んだ。その後、オランダやパリも訪れた。 1881年にニューヨークに戻り、人物画の画家、肖像画家として成功し、多くの有名人の肖像画を描いた。1893年サロン・ド・パリにも出展し、高評価を得て、フランスの国民美術協会の会員に選ばれた。 ホワイトは保険会社(Equitable Life Assurance Society)の会長の娘、エリザベス・アレクサンダー(Elizabeth Alexander)と結婚し、結婚後は平凡なホワイト姓から妻の姓アレクサンダーを名乗った。 1902年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの正会員に選ばれ、1909年から1915年の間は校長を務めた[1]。 作品
脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia