ジョージ・フィッツロイ (初代ノーサンバランド公)
初代ノーサンバランド公爵ジョージ・フィッツロイ(英: George FitzRoy, 1st Duke of Northumberland, KG, PC、1665年12月28日 - 1716年6月28日)は、イギリスの貴族。 イングランド王チャールズ2世の私生児の1人で1674年にノーサンバランド伯、1683年にノーサンバランド公に叙されたが、子供がなかったので爵位は彼一代で廃絶した。 経歴1665年12月28日、チャールズ2世とその愛人バーバラ・パーマー(後の初代クリーヴランド女公爵)の間の3人の非嫡出男子の末息子としてオックスフォードに生まれる[1][2](他の2人は初代サウサンプトン公爵・第2代クリーヴランド公爵チャールズ・フィッツロイと初代グラフトン公爵ヘンリー・フィッツロイ[3])。 母バーバラは、チャールズ2世の別の愛人ルイーズ・ケルアイユ(初代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの母)にライバル意識を燃やしており、自分の3人の息子に爵位を確保しようと必死に宮廷工作を行った[3]。 その結果、ジョージは1674年10月1日にノーサンバランド伯、コーンウォール州におけるファルマス子爵(Viscount Falmouth in the county of Cornwall)、ヨーク州におけるポンテフラクト男爵(Baron of Pontefract in the county of York)に叙され、さらに1683年4月6日にはノーサンバランド公に叙された[1]。同年4月8日にはガーター騎士団ナイトにも叙されている[1]。ノーサンバランド伯位はジョスリン・パーシーが1670年に息子の無いまま死去して空位、チャールズ2世がそこに付け込んだという事情があった[4]。 同年夏にはルクセンブルク包囲戦にフランス側で参加し、秋にイングランドに帰国した[1]。 1687年には近衛騎兵連隊女王所有大隊の指揮を執った[1]。1702年にはウィンザー城管理長官に就任[1]。1703年には王立近衛騎兵連隊連隊長に就任。1710年には中将の階級を与えられた[1]。 1713年4月7日には枢密顧問官に列した[1]。1714年にはサリー統監に就任[1]。 1716年6月28日にエプソムで死去。子供はなく、彼の死とともに爵位は消滅した[1][5]。ウェストミンスター寺院に葬られた[2]。 栄典爵位
勲章
家族1686年3月に鶏肉商人ロバート・ウィートリーの娘キャサリン・ウィートリーと最初の結婚をした[1][2]。1714年にキャサリンと死別し、1715年3月にヘンリー・ダットンの娘メアリーと結婚した[2]。いずれの結婚でも子供はなかった[2]。 脚注注釈出典
参考文献
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