ジョージ・モンタギュー=ダンク (第2代ハリファックス伯爵)![]() 第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンク(英語: George Montagu-Dunk, 2nd Earl of Halifax KG PC、出生名ジョージ・モンタギュー(George Montagu)、1716年10月6日 – 1771年6月8日)は、イギリスの政治家、貴族。1739年までサンベリー子爵の儀礼称号を使用した。 生涯![]() 初代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギューと2人目の妻メアリー・ラムリー(Mary Lumley、1726年12月10日没、初代スカーバラ伯爵リチャード・ラムリーの娘)の息子として、1716年10月6日に生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後、1734年2月4日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[2]。 1739年5月9日に父が死去すると、ハリファックス伯爵の爵位を継承、同年にブッシー・パーク管理官(Ranger of Bushy Park)に任命された[1]。貴族院議員に就任した直後に野党に加わり、1742年10月に王太子フレデリック・ルイスの寝室侍従に任命された[3]。しかし、1744年にヘンリー・ペラム内閣と和解してバックハウンド管理長官に任命された(在任:1744年 – 1746年6月)[3]。1745年ジャコバイト蜂起では1個連隊を招集し、9月にはノーサンプトンで演説してジェントリに政府側につくよう呼び掛けた[3]。同年10月4日に陸軍大佐に任命され、実際に軍務に就くことがなかったにもかかわらず1759年2月4日に少将に昇進した[3]。1746年6月に南トレント巡回裁判官(1746年6月 – 1748年10月7日)に転じ、1748年秋には第一商務卿(在任:1748年秋 – 1761年3月21日)に就任、1749年1月11日に枢密顧問官に、1749年11月にノーサンプトンシャー統監(1771年まで在任)に任命された[3]。また、第一商務卿の在任中にノバスコシア植民地の首府設立に貢献、首府の名前ハリファックスはハリファックス伯爵を記念して1749年に名付けられたものである[4][3]。さらに西インド諸島の植民地を商務委員会の管理下に置こうとし、「西インド担当国務大臣」への就任を目指したが、ジョージ2世に拒否され、1756年6月と1757年6月に辞任した(2度とも初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズからわずかな譲歩を引き出して辞任を撤回した)[3]。その後、第2次ニューカッスル公爵内閣期にあたる1757年10月に閣議入りを果たした[1]。 1761年3月にアイルランド総督に任命され、10月にダブリンに着任した[3]。1762年2月、アイルランド議会が総督の給与額を毎年12,000ポンドから16,000ポンドに増額したが、ハリファックス伯爵は自身が増額した給与を受け取らず、増額がハリファックス伯爵の後任から発効するようにした[3]。また、1762年6月から10月にかけて海軍卿を兼任した[1]。ビュート伯爵内閣のもとで1762年10月に北部担当国務大臣に任命され、その後継であるグレンヴィル内閣でも国務大臣に留任した[4]。1763年、ジョン・ウィルクスへの捜索令状に署名した[4]。 1764年4月23日にガーター勲章を授与された[1]。その後、1765年7月に辞任したが、1770年1月にノース内閣の王璽尚書になり、1771年に北部担当国務大臣に転じた[4]。 北部担当国務大臣に転じてまもなくの1771年6月8日に死去、ホートンで埋葬された[1]。後継者がおらず、爵位は全て断絶した[1]。 家族1741年7月2日、アン・ダンク(Ann Dunk、1726年頃 – 1753年10月13日[5]、トマス・ダンクの息子ウィリアムの娘)と結婚[1]、3女をもうけた[5]。この結婚に伴い、ハリファックス伯爵は姓に「ダンク」を加えた[1]。
また、愛人にアンナ・フォルクナーというドルーリー・レーンの歌手がおり、2人は庶出の娘アンナ・マリア(Anna Maria)をもうけている[1]。 出典
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