働きながら植物学に興味を持ち、植物学の書物を手書きで写し、植物学を学んだ。博物学者のニースカン(Peter D. Knieskern)と知り合い、さらに多くの植物学者を紹介され、手紙のやりとりをするようになった。地元の多くの植物を集めたが、論文を発表するようになるのは1870年代になってからである。
1846年にバークシャー医学校(Berkshire Medical Institute)を卒業した後、結婚し、イリノイ州のリンウッド(Ringwood)に住んだ。1854年に雑貨店(dry good store)を開いて家族と母親を養った。1858年に、イリノイ自然史協会(Illinois Natural History Society)の創立会員となり、その後、数年間、学会の会誌や、イリノイ州で創刊された週刊新聞、"Prairie Farmer"に記事を書いた。1864年に子供の一人を失い、妻も衰弱したので、リッチビューに転居したが1866年に妻を失った。
しばらく執筆をやめ、その後寡婦と再婚するが生活は苦しかった。1868年にイリノイ自然史協会の会員で探検家のジョン・ウェズリー・パウエルに誘われ、ロッキー山脈やグリーン川とコロラド川周辺の学術探検に参加した。"Entomologist and Botanist" の編集を行った後、イリノイ州立大学自然史博物館の学芸員となった。その後、学芸員を止め、チャールズ・クリストファー・パリーの後をついで、アメリカ農務省の主任植物学者となり、標本館の充実や、フィラデルフィア万国博覧会での森林資源展示など貢献した。
Coville, Frederick Vernon (May 1893). “Death of Dr. George Vasey”. Bulletin of the Torrey Botanical Club (Bulletin of the Torrey Botanical Club, Vol. 20, No. 5) 20 (5): 218–220. JSTOR2477497.
Canby, Wm. M.; Rose, J. N. (May 1893). “George Vasey: A Biographical Sketch”. Botanical Gazette18 (5): 178–183. doi:10.1086/326929. JSTOR2464581. (with bibliography)