スウィート・ダディ・シキ
スウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki、本名:Elkin James[3]、1933年6月16日[3] - 2024年12月31日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州モンゴメリー出身のアフリカ系アメリカ人。生年は1938年ともされる[2]。 派手なコスチュームをまとい、黒人でありながら髪をブロンドに染め、試合前に手鏡と櫛でその髪を整えるなどのパフォーマンスから、Negro Gorgeous George(黒いゴージャス・ジョージ)などの異名を持つ[4]。ショーマン派黒人レスラーの先駆者的存在であり、ドロップキックの名手としても知られた[2]。 来歴元世界ヘビー級王者サンダー・ザボーのトレーニングを受け、1955年にニューメキシコ州のアルティサにてデビュー[5]。デビュー当時は80kg程度の軽量だったものの、3年間で100kgを超えるウエイトアップに成功[5]、1959年2月にはオハイオにてバディ・ロジャースを破り、NWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を獲得した[6]。 1961年にカナダのトロントに渡り、フランク・タニーが主宰していたメープル・リーフ・レスリングを主戦場に活動。1962年4月4日にはブルドッグ・ブラワーと組んでホイッパー・ビリー・ワトソン&ビリー・レッド・ライオンからNWAインターナショナル・タッグ王座を奪取、9月27日にワトソン&ブルーノ・サンマルチノに敗れるまで戴冠した[7]。地元のテキサスでは1963年2月15日、ヒューストンにてリップ・ホークからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取している[8] 。 1964年よりニューヨークのWWWFにも参戦し、ベビーフェイスのポジションでドクター・ジェリー・グラハム、ハンス・シュミット、カウボーイ・ビル・ワットなどの大物ヒールと対戦。ボボ・ブラジルとも黒人タッグチームを組み、1965年2月16日に当時ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックが保持していたUSタッグ王座に挑戦した[9]。 1965年4月には日本プロレスに初来日し、ワールドリーグ戦の第7回大会に「西インド諸島代表」として出場。予選リーグではジャイアント馬場には敗れたものの、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉らに勝利するなど、外国人陣営ではドン・マノキャンと並んでフレッド・ブラッシーに次ぐ2位の戦績を残した[10]。また、同年はカルガリーにてドン・レオ・ジョナサンを破り、NWAカナディアン・ヘビー級王座を獲得している[11]。 その後もカナダを活動の拠点に、1971年にはハワイにも進出、ムーンドッグ・メインとの異色コンビで10月9日にベアキャット・ライト&サム・スティムボートからNWAハワイ・タッグ王座を奪取した[12]。以後はカントリー・シンガーとしての活動を開始する一方、1980年まで単発的にトロントのメープル・リーフ・レスリングに出場していた[4][9]。 しばらくリングから離れた後、1984年にプロレス業界に復帰して、1月6日にカルロス・コロンの主宰するプエルトリコのWWCでペドロ・モラレスから北米ヘビー級王座を奪取[13]。同年10月には、当時カナダ東部地区との提携ルートを持っていたUWFに来日。約20年ぶりの日本マット登場が実現し、前田日明や藤原喜明らと対戦した[14]。帰国後はWWFのオンタリオでの興行にも出場、キッチナーでは当時のWWF世界タッグ王者ディック・マードックのジョバーを務めている[9]。 現役引退後も長年主戦場としていたトロントに居住し、1990年代前半はトレーナーとしてアダム・コープランドらをコーチした[15]。以降もトロントにてカントリー&ウエスタンのバンドやDJなどの音楽活動を行っていた[5]。 2024年12月31日、長年の認知症との闘病の末、トロントの病院で死去。91歳没[3]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク
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