ストア・ポイキレ
ストア・ポイキレ(ギリシア語: Ποικίλη στοάまたはギリシア語: Πεισιανάκτειος στοά)はギリシャ アテネのアテナイのアゴラ内にある柱廊。日本語で彩色柱廊と書くこともある。紀元前5世紀(BC460年前後[1])にアテナイのアゴラの北端に造られた。 ストア・ポイキレは古代ギリシアで最も有名な場所であり、柱廊には戦争画や戦利品が飾られていた。また、この場所でゼノンが説いた哲学は、後にこの場所に因んでストア派と呼ばれることになる。近年の発掘調査によれば、外側の列柱はドーリア式、内側はイオニア式の円柱だったことが分かった。 建設後600年程度は、補修を繰り返して良い状態で残存していたと思われる。267年のヘルール族の侵入時に、展示されていた戦利品などは略奪され、396年頃までにはローマ帝国の属州総督が展示されていた絵画などを撤去した[1]。その後50年から100年程度は建物自体は残っていたようだが、後に解体されアテナイの城壁を造る材料等として石材が持ち去られた。 1981年に行われた考古学調査により、ストア・ポイキレの大きさがゼウスのストアとほぼ同じ大きさであるとされた[2]。 ストア内に陳列された4絵画ストア建造後まもなく、『オイノエ』『アマゾノマキア』『トロイアの陥落』『マラトマキア』の4つの絵画が陳列され、ペイシアナクテイオス=ストア(Πεισιανάκτειος στοά)と呼ばれていた柱廊はポイキリ=ストア(Ποικίλη στοά,絵画のある柱廊)と呼ばれるようになった。これらの絵画は失われてしまい現存していないが、2世紀の地理学者パウサニアスが著した『ギリシア案内記』からその内容を知ることができる[2]。 ストアに陳列された絵画は、ストア建築と同時代と英雄時代の戦いを扱い、相互に関連しながら全体としてアテナイの対外的な勝利を称揚しつつ、同時に勝利に際しての振る舞いを戒める警告的な意味合いも持っていたと言われる。その後、ペロポネソス戦争で投降したスパルタ兵から得た盾という象徴的な戦利品が展示されるようになるなど、ストアが勝利の殿堂にふさわしい空間として認識され戦勝記念碑的性格がより強まっていたと考えられている[3]。
ストア・ポイキレには5つ目の絵画『嘆願するヘラクレスの子供たち』が存在したとする説もあるが、多くの研究者はこの5つ目の作品はこの場所には陳列されていなかったとしている[2]。 現地へのアクセス関連項目脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia