セルゲイ・タネーエフ
セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ[1](ロシア語: Серге́й Ива́нович Тане́ев、ラテン文字転写例: Sergei Ivanovich Taneyev、1856年11月25日(ユリウス暦 11月13日)) - 1915年6月19日(ユリウス暦 6月6日))は、ロシアの作曲家、ピアニスト、音楽理論家、教育者。 生涯
1856年、ロシア帝国・ヴラディーミルで生まれた。15世紀まで歴史をたどれる貴族の家系に生まれ、父・イヴァンは医師で、アマチュア音楽家であった。5歳からピアノを習い始めた。 1866年の9歳の時、一家はモスクワに移住し、新設されたモスクワ音楽院に同1866年に聴講生として入学(1869年に正式な生徒となった)。低学年の頃はエドゥアルト・ランゲルのクラスで学び、正式な生徒となってからはピアノをエドゥアルト・ランゲルとニコライ・ルビンシテインに、音楽形式とフーガをニコライ・グーベルトに、作曲と楽器法をピョートル・チャイコフスキーの下で学んだ。特に、チャイコフスキーには可愛がられた学生であった。1875年に金メダルを得て卒業[2]。
卒業後はピアニスト、作曲家として活躍。レオポルト・アウアーとデュオを組んで演奏旅行を行う。1875年11月には、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』のモスクワ初演でピアノを担当。1882年5月22日には同じく『ピアノ協奏曲第2番 ト長調』の世界初演を担当した。 1878年よりモスクワ音楽院で教鞭を執り、和声および楽器法を担当した。1881年に教授に昇格し、亡くなったニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も受け持った。そして1885年から1889年までの4年間、音楽院院長も務めた。なお、生涯を終えるまで乳母とともにマールィ。ブラシエフスク横丁の貸家に住んでいた。タネーエフはレフ・トルストイの寵愛を受け、トルストロイ家を頻繁に訪れる客であり、ヤースナヤ・ポリャーナで多くの時間を過ごした。1895年、トルストイ夫妻は7歳の息子を亡くし、トルストロイは悲しむ妻・ソフィア・トルスタヤを励ますために夏の休暇をタネーエフと共に過ごすこととし招待した。しかし夫人はこの頃からタネーエフに恋心を懐くようになり、トルストロイはタネーエフの同性愛を知っていたものの嫉妬を懐くようになり、夫婦間の不和の原因となってしまった。 1905年、権威主義的な運営方法に抗議して音楽院を退職。教授陣や学生には戻ってくることを要請されたが、戻ることはなかった。
![]() 1906年、一般の人々に普及をはかる人民音楽院の創設者となり、教員ともなった。音楽民俗学を学び、学生らと共に働いた。音楽院を退いた後の晩年はヨーロッパへ旅行することが多かった。 1915年、弟子であったスクリャービンの葬儀に出席した際、薄着で棺を担いだのが元で風邪を引き、心臓病を併発してモスクワ近郊のデューティコヴォ村[3]で生涯を閉じた。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。 作曲作品とその特徴出版について無頓着だったために出版された作品数は少なく、番号付けは混乱しているが、4曲の交響曲、弦楽四重奏曲などの室内楽曲、オペラ、合唱曲、ピアノ曲(数は少ないが、リーリャ・ジルベルシュテインがレパートリーとしている『前奏曲とフーガ 嬰ト短調』(作品29)が有名)など多数の作品を残した。わずかながら正教会の聖歌も作曲している(『主よ、爾は善智なる盗賊を』)。 その作風はチャイコフスキー同様保守的であるが、叙情性よりも構築性を重んじ、対位法を多く駆使しており、「ドイツ的」と称されることが多い。グラズノフ、門人パウル・ユオンやメトネルと並んで、「ロシアのブラームス」と呼ばれる一人である。もっとも、タネーエフ自身はブラームスを嫌悪していた(同様にワーグナーも嫌悪していた)。 音楽理論に関して対位法の理論家としても知られ、著書には『可動的厳格対位法』、『カノンの研究』、ブレッスラーの『厳格対位法と楽式論』の翻訳などがある。また、チャイコフスキーのいくつかの未完作品(『アンダンテとフィナーレ』など)を補筆している。 演奏家としてなお、ピアニストとしては、1891年にモーツァルトの『幻想曲 ハ短調』(K. 396)をエジソンシリンダーに録音しているほか、高く評価していたアントン・アレンスキーの『2台のピアノによる組曲第2番《シルエット》』の第4曲の録音(1892年)をパーヴェル・パプストと共に残している。
弟子には下記がいる。 家族・親族
作品交響曲
管弦楽曲
協奏曲
弦楽四重奏曲
室内楽曲
ピアノ曲
合唱曲
オペラ
参考文献
外部リンク
脚注
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