ソニア・リキエル
ソニア・リキエル(Sonia Rykiel, 1930年5月25日 - 2016年8月25日[1])は、フランスのファッションデザイナー。 略歴パリ西部近郊ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。ユダヤ人の血をひく家系で、父はルーマニア出身の時計職人、母はロシア出身という中流ブルジョワ家庭で育った。17歳の時、パリの服飾生地販売店に就職し、ウインドーディスプレイを担当していた。 1954年にブティック経営者のサム・リキエルと結婚。妊娠中、着たいようなマタニティウェアがなかったので、自らセーターを作ったのがデザイナーになったきっかけであった。このセーターがやがて人気となり、パリ14区のアレジア通り沿いにある現店舗に程近い、ジェネラル・ルクレール大通り (Avenue du Général Leclerc) 104番地にあるサムの店舗で販売するようになった。「Poor boy sweater」(貧しい少年のセーター)と呼ばれたこのセーターは、雑誌『ELLE』に取り上げられ、またオードリー・ヘップバーンは14色のセーターを全色買い求めた。 1968年5月、自らメゾンを立ち上げ、名前と同名のブランドを持つ。普段着だったニット(セーターないしプルオーバー)、特に少年らが着ていたそれを、ボーダー柄やスパンコールなど[2]をあしらうことでファッショナブルに変貌させ、「ニットの女王」の異名をとった[3]。パリ6区グルネル通りに第1号店を開いてから、子供服、化粧品、紳士服と次々と事業を拡大。80歳を過ぎても現役であった。娘のナタリーもアートディレクターとして参加している。なお、メゾンについては、2012年に株式を香港の商社・リー&フォン傘下の投資会社を中心とするグループに売却した[4]。 1983年、フランス文化省から芸術文化勲章を受勲した。晩年はパーキンソン病を患っており、この病の合併症により2016年8月25日午前5時、パリの自宅で亡くなった[5]。86歳没。遺体はモンパルナス墓地に葬られている。 没後![]() 2018年、パリ市内の一角にブランド設立50周年を記念して、生前の功績を称え、彼女の名前を冠したソニア・リキエル通りが誕生した。 一方で、彼女の死をきっかけに、ソニア・リキエル社は業績不振がさらに悪化。2019年3月には、ルイ・ヴィトンを経て2014年からクリエイティブ・ディレクターを務めていたジェリー・ドゥ・リブランが退社[4][6]。4月30日、ソニア・リキエル社は再建型破産手続きを申請し、管財人の管理下に置かれることになった。しかし、期限までにスポンサー候補との間で条件面での折り合いがつかなかったため、同年7月25日、フランス商事裁判所はソニア・リキエル社の清算を決定[2]。2019年12月、フランス人実業家の兄弟エリックとミシェル・ダイヨンがソニア・リキエル社を買収し、2020年10月から商品の販売を再開した[7]が、ブランドの再建に苦心していた[3]ところ、2021年、DKNY・ダナ キャランなどのブランドを傘下に抱えるG-III Apparel Groupがダイヨン兄弟から買収した[3]。 ブランド![]()
日本での展開日本では1980年代、セゾングループのエルビスが輸入販売を手掛けていた[9]。その後オンワードグローバルファッション (OGF) が総代理店となっていたが、ミッソーニと共に2017-2018年秋冬コレクションで終了[10]。ソニア・リキエル・ジャポンをソニア・リキエル社の直接子会社とした上で、2018年春夏コレクションから独自の展開を開始した[11]。アクセサリーの強化などを通じてブランド活性化に取り組んだ[12]が、清算決定に伴い2019年7月末をもって終了[2]。「ソニア・バイ・ソニア・リキエル」も同じくOGFが取り扱っていたが、こちらも2017-18秋冬コレクションが最後となった[10]。 オンワード樫山がライセンスで手掛けるブランド「ソニア・リキエル コレクション (SONIA RYKIEL COLLECTION)」についても、2018-19秋冬コレクションを最後に終了した[2][13]。 「ソニア・リキエル ボーテ」については、アルビオンがライセンス契約を2014年12月31日で打ち切ったため、同年度末に販売を終了した[8]。 日本語書籍
脚注
関連項目
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia