ソビエト連邦における強制移送 (ロシア語 : Депортации народов в СССР )では、1930年代から1950年代にかけてヨセフ・スターリン がNKVD 長官のラヴレンチー・ベリヤ に命じて実行したソ連 における民族 や階級 単位での人々の強制移住 政策 について述べる。これらの強制移送はクラーク(富農)の追放 など"反ソビエト 的な"人々の強制移送、民族そのものの強制移住、労働力移転、民族浄化 が行われた地域への新たな入植などのために行われた。
多くの場合、移送先は辺境の過疎地であった。(詳しくはソビエト連邦における強制居住地 (英語版 ) を参照) また、これらの移送には非ソビエト国民をソ連領外に追放する移送も含まれる。国内間での強制移送は全体で少なくとも600万人に対して行われたと推定されている[ 8] 。1930年 - 1931年には180万人のクラーク 、1932年 - 1939年には農民と少数民族中心に合計100万人、1940年 - 1952年には少数民族を中心に350万人もの人々が強制移送の対象となっている。
ソ連の資料によれば、39万人ものクラークが強制移送の最中に命を落とし、1940年代に最大40万人の人々が死亡したとされている。しかし、フランスの歴史家であるNicolas Werth (英語版 ) は、約100〜150万人が強制移送によって亡くなったとしている。同時期の歴史家でも強制移送は人道に対する罪 や民族の迫害 であるとしている。ソビエト連邦の崩壊 直前の1991年 4月26日 にソビエト連邦最高会議 は、ボリス・エリツィン 議長の下で抑圧された人々の名誉回復のための法で"スターリンの政策は名誉棄損でジェノサイドにあたる"と非難した[ 3] 。クリミア・タタール人追放 とチェチェン人とイングーシ人の追放 (英語版 ) について、ウクライナ 、ラトビア 、リトアニア 、カナダ などの国々やヨーロッパ議会 でジェノサイド の認定を受けている[ 1] 。
さらに、バルト諸国占領 の際や第二次世界大戦後における東欧からのドイツ人追放 の際にはソビエトによる追放や虐殺、強制収容所への抑留や強制労働によって、それぞれ5万人、30〜36万人が亡くなっている[ 12] 。
社会階級による強制移送
クラーク はロシア帝国 末期の時代に登場した比較的裕福な自営農家であった。クラークとみなされた人は弾圧され、強制移送の対象となった[ 13] 。
1951年 9月5日 にはソビエト政府は"コルホーズ への敵対的行動"を理由としてリトアニアSSR からのクラークの追放を命じている。
多くのクラークとみなされた人々はその国籍によらずシベリア や中央アジア に移送された。1990年公開のソ連の公文書では、1930年から1931年の2年間には1,803,392人が労働入植地や強制労働収容所に送られたが、追放先に着いたのは1,317,022人としており、さらに1931年以降も小規模ながらクラークの追放が続き、1932年から1939年の間に389,521人のクラークやその親族が亡くなったとしている[ 15] 。一方で、1,679,528〜1,803,392人の人々が追放されたとの控えめな推定や1937年までに1,500万人の人々が追放されたとの推定も存在しており、正確な強制移送された人数やそれに伴う死者数は不明である[ 17] 。
民族移送政策
ボリシェビキ はロシア革命 では民族自決 と地方自治 を提唱し、1917年11月15日の「ロシア諸民族の権利に関する法令」を公布した[ 18] 。しかし、これはのちに反故にされた[ 18] 。
革命前にはスターリンも民族自決 と地方自治 を提唱していた[ 18] 。しかし、やがてスターリンは「ソビエト民族」と「外国」民族を峻別し、ソ連国境の民族を敵視していった[ 18] 。ソビエトのドイツ人はナチス支持者で、ソビエトの朝鮮人は日本帝国の支持者で、ソビエトのポーランド人はピウスツキ率いるポーランドの手先とみなされ、スターリンの戦争恐怖症とスパイ恐怖症は、『人民の敵 』をでっちあげ、これを抹殺することに熱中していった[ 18] 。
1930年代にいわゆる「人民の敵」と呼ばれる人々はクラークのような社会階級的なものから民族的なものへと変わっていった[ 19] 。スターリン政権下では問題を起こす可能性のある民族の排除が行われていった[ 20] 。1937年以後、スターリンは「大ロシア民族」が他の民族より優位にあると主張した[ 21] 。
スターリン政権下ではポーランド人 (1939年 - 1941年、1944年 - 1945年)、コラ・ノルウェー人 (英語版 ) (1940年 - 1942年)、ルーマニア人 (1941年、1944年 - 1953年)、エストニア人 、ラトビア人 、リトアニア人 (1941年、1945年 - 1949年)、ヴォルガ・ドイツ人 (1941年 - 1945年)、イングリア・フィン人 (1929年 - 1931年、1935年 - 1939年)、カレリア のフィン人 (1940年 - 1941年、1944年)、クリミア・タタール人 、クリミアのギリシャ人 (英語版 ) (1944年)、コーカサス のギリシャ人 (1949年 - 1950年)、カルムイク人 、バルカル人 、クリミアのイタリア人 (英語版 ) 、カラチャイ人 、メスヘティア・トルコ人 、カラパパク人 (英語版 ) 、朝鮮人(1930年 - 1937年)、チェチェン人 、イングーシ人 (1944年)が強制移送の対象となった。
戦前(1939年まで)
ソビエト連邦のベッサラビアおよびブコヴィナ地方北部の占領 (英語版 ) によるルーマニア人避難民
1932-33年、ポーランド人とドイツ人のおよそ15万の家族、合わせて約50万人が逮捕されて特別移住地 に強制移住させられ、すでに住んでいたクラークと『非社会的分子』に合流させられ、多くの強制移住者は流刑地で死んだ[ 21] 。
1935年から1938年にかけては10の民族が追放された[ 22] 。 独ソ戦 中にはソ連領内での民族浄化が激化した[ 23] 。
朝鮮人の追放
ソビエト連邦における朝鮮人の強制移住 では、1930 - 1937年に沿海州 などの極東ロシア に住む朝鮮民族 のほぼ全員(171,781人または17万5000人[ 21] )がカザフSSR やウズベクSSR に追放され、ソビエト連邦において初の大規模な強制移送となった[ 24] [ 25] 。1937年8月から9月にかけて朝鮮人を日本のスパイとして中央アジアに強制移住させたことは、のちの独ソ戦後のドイツ人追放、ドイツ後退後に「対独協力」とされたチェチェン人やクリミア・タタール人の強制移住の原型となった[ 26] 。
大粛清中のポーランド人、ドイツ人の追放
1937-1938年の大粛清 は、民族をも不均等に襲い、ソ連に住む外国人は、「母国」のスパイとみなされた。ドイツ系ソビエト市民は65000-6万8000人が逮捕され、4万3000人が死刑宣告され、処刑された[ 21] 。ヴォルガ・ドイツ共和国 は特別な弾圧の対象とはされなかったが、ポーランド人 は全家族が逮捕され、女性はグラーグ へ送られ、15歳未満の子供はNKVD孤児院に収容、14万4000人がこのポーランド人狩りで逮捕され、うち11万1000人が銃殺された[ 21] 。スターリンは、1938年にポーランド共産党 を解体し、指導者を銃殺あるいは流刑に処し、KVDのポーランド系職員も多くが粛清された[ 21] 。ソ連にいたドイツ共産党員 はナチスに引き渡され、その多くはナチスの収容所で死亡した[ 21] 。こうしたスターリンによる第五列 排除のための民族狩り作戦全体で35万人が逮捕され、うち24万7000人が銃殺された[ 21] 。
西方の領土の併合期(1939年 - 1941年)
1939年の独ソ不可侵条約 の付属秘密議定書により、ソ連はエストニア 、ラトヴィア 、リトアニア 、東部ポーランド(西ベラルーシと西ウクライナ)、ベッサラビア (モルドヴァ)を占領した[ 27] 。なお、秘密議定書についてソ連は89年まで否定し続けた[ 27] 。
東部ポーランド
1939年のソビエト連邦によるポーランド侵攻 により旧ポーランド領の一部がベラルーシSSR とウクライナSSR に併合された。この併合された地域に住む住民145万人が1939年 - 1941年に強制移住の対象となった。 1940-41年だけで東部ポーランドの住民30万人が極北、シベリアなどへ強制移送させられた[ 27] 。
ポーランドの歴史家で社会学者のTadeusz Piotrowski (英語版 ) によれば、そのうち63.1%がポーランド人 で、7.4%がユダヤ人 であったとされる[ 28] 。以前はポーランド人の強制移住による死者は100万人程度と言われていたが[ 29] 、1939年 - 1945年に強制移送によって亡くなったポーランド人は35万人程度であると推定されている[ 30] [ 31] 。
同時期に起こったカティンの森事件 ではポーランド軍将校ら2万1857人が、NKVD によって虐殺された。ロシア・ソビエトは、西スラヴ民族のポーランド人を貴族(パン)であり、危険で搾取する信用できない隣人とみなしており、ネイマーク はこの事件を「20世紀史におけるもっとも明快なジェノサイド事件の一つ」とみなす[ 32]
バルト諸国
ソ連によるリトアニアからの強制追放 (英語版 ) 、ソ連によるラトビアからの強制追放 (英語版 ) 、ソ連によるエストニアからの強制追放 (英語版 ) もそれぞれ参照。
同時期にソビエト連邦によるバルト諸国占領 によってソビエトに占領、編入されたリトアニアSSR 、ラトビアSSR 、エストニアSSR でも、強制移送が行われた[ 33] 。1940-41年にソビエト国家に併合されると、エストニアからは6000人、ラトヴィアから17000人、リトアニアから17500人が強制移住させられた[ 27] 。バルト諸国では反ソ連ゲリラが活動し、1945年の段階で、リトアニア共和国で3万、ラトヴィアで1万5000人、エストニアで1万5000人が抵抗し、ソ連は弾圧に8年以上要した[ 34] 。
1939-1949年の間で強制移住の被害者総数はエストニア3万2540人、ラトヴィア5万2541人、リトアニア11万8599人にのぼる[ 27] 。1940年 - 1953年の期間で計算すると、推定20万人以上の人々がバルト諸国から強制追放され、少なくとも7.5万人がグラグ に送られ、これはバルト諸国の全成人人口の10%が強制移送や強制収容所への収容の対象となったということになる[ 35] [ 36] 。
1989年にはラトビアのラトビア人は52%に過ぎなくなり、エストニア国内のエストニア人も62%に過ぎなくなっていた[ 37] 。他方、リトアニアではリトアニアへの移民が東プロイセン (現在のカリーニングラード州 )に移動したためリトアニア国内のリトアニア人の比率は比較的高かった[ 38] 。
ルーマニア人
同様にソビエト連邦のベッサラビアおよびブコヴィナ地方北部の占領 (英語版 ) に伴い、チェルニウツィー州 やモルダヴィアSSR のルーマニア人 20〜40万人も強制移送の対象となった[ 39] 。
独ソ戦期(1941年 - 1945年)
クリミア・タタール人追放により無人となったクリミア・タタール人の集落Üsküt (1945年撮影)
リトアニア から極東 への強制移送のルート
独ソ戦の間にもソビエトによって強制移送 が行われた。この時期には約190万人がシベリアや中央アジアに送られている。これらの強制追放は一民族がナチス・ドイツ や反ソビエトの抵抗勢力と結託することを恐れたものであった。また、1945年5月の戦勝記念日にスターリンはロシア民族はソ連の指導的民族であると述べ、大ロシア主義 をかざした[ 34] 。
この時期にはヴォルガ・ドイツ人 [ 40] や、クリミアや北コーカサスに住むクリミア・タタール人 [ 41] 、カルムイク人 、チェチェン人 [ 42] 、イングーシ人 、バルカル人 、カラチャイ人 、メスヘティア・トルコ人 などが強制追放の対象となった。黒海 沿岸から強制移送させられたそのほかの少数民族にはブルガリア人 、クリミアのギリシャ人、ルーマニア人、アルメニア人 がいた。
北カフカース
1943年11月から44年3月にかけて、北カフカースでドイツ軍を追い払った後、カラチャイ人、チェチェン人、イングーシ人、カルムイク人あわせて65万人が民族根こそぎ、追放された[ 34] 。
クリミア・タタール人追放
約183,000人ものクリミア・タタール人 の内、全人口の10%にあたる2万人がドイツ軍の大隊に所属していた[ 43] 。そのため、多くのクリミア・タタール人 がドイツ軍敗退後、集団懲罰 的にウズベクSSR やそのほか辺境地の特別収容所 に強制的に移送された[ 44] 。1944年5月に、スターリンによりクリミア・タタール人 は対独協力の嫌疑をかけられ、約20万人の全民族が中央アジアやウラル 、シベリア に強制移住を余儀なくされた[ 45] [ 46] 。強制移住の過程で、クリミア・タタール人19万人のうち7万人から9万人が死亡した[ 45] 。30万人が追放され、途中で10万人以上が死亡したともいう[ 34] 。
NKVD のデータによれば、追放後1年半後の死亡率は20%近くに上ったとされる。一方クリミア・タタール人の活動家によれば、クリミア・タタール人追放 の場合では46%近くが死亡したという[ 47] [ 48] 。
ヴャチェスラフ・モロトフ はこの強制移送に関する決定について"事実、戦いの最中に集団反逆の報告を受けていた。コーカサス人の大隊が前線で我々の背後から攻撃を行った。これは生死の問題である以上、調査の時間はなかった。もちろん罪なき人々も苦しんだ。その状況を踏まえれば、我々の行動は正しかったと思う。"と正当化した[ 49] 。
戦後
第2次世界大戦後、ドイツ人追放 によってドイツ人 がオーデル・ナイセ線 以東やチェコスロバキア 、ユーゴスラビア からドイツ 本国へ送還となった。
1974年のドイツ政府による調査によれば、ドイツ人追放により1945年から1948年にかけてドイツ民間人のうち60万人が死亡し、そのうちオーデル・ナイセ線以東では40万人が死亡したとされる(その内訳はソ連軍やポーランド人の直接的な暴力行為により12万人、ポーランド領内の強制収容所における飢えや病気などで6万人、ソ連領内の強制収容所における飢えや病気などで4万人、ソ連での強制労働に伴い犠牲となった民間人20万人であるとされる。)[ 12] 。
ドイツ人が追放された旧ドイツ東部領土 のうち戦後カリーニングラード州 となった領域には主にロシア人 などのソビエト国籍者が移住した。
また、ポーランド とウクライナ の間では住民交換が行われた。ポーランド・ソ連国境の東側に住む約210万人のポーランド人がポーランドに送られ、国境の西側に住むウクライナ人 がウクライナSSRに送られた。1944年から1946年までに約45万人ものウクライナ人がウクライナに移住したが、1945年までに移住したウクライナ人には自発的にポーランド南東部を去った者もいたといわれる[ 50] 。
強制移送によって1953年1月までにはカザフスタン には444,005人のドイツ人、244,674人のチェチェン人、95,241人の朝鮮人、80,844人のイングーシ人などの入植者が大勢おり、カザフ人はカザフSSRの人口の30%にすぎなかった。
シベリアに追放された者の住居(リトアニアのRumšiškės にある博物館で展示
これらの大規模な諸民族の強制移送により、スターリンは第二次世界大戦 の直前期から戦後にかけて、ソビエトの民族分布に大きな影響を与えた[ 52] 。
1941年から49年にかけては330万人近くの人々がシベリアや中央アジアに強制移送されている[ 53] ある概算によると、移送された人の43%が感染症 と栄養失調 で死んだという[ 54] 。
スターリンの死後
1956年2月、ソ連第3代最高指導者のニキータ・フルシチョフ よる秘密報告「個人崇拝とその結果について 」において強制移送がレーニン主義 の原則に反するとし、次のように非難した:
「
なおさら残忍なのは、ソビエト連邦の原則であるレーニン主義に反し、スターリンが発起した法令である。全国のあらゆる場所の出身地からの大規模な追放について言及しよう... この移送行為はいかなる軍事的な配慮によって支持された者でもなかったのである。というのも、既に1943年末には前線に安定な突破口をつくることができたが、 すべてのカラチャイ人を住処から追放する決定が下され、実行された。同時期の1943年12月末にはカルムイク自治ソビエト社会主義共和国 の全住民が同じ運命となった。3月にはすべてのチェチェン人やイングーシ人が追放され、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国 は廃止された。1944年4月、全てのバルカル人がカバルダ・バルカル自治ソビエト社会主義共和国 から追放され、共和国はカバルダ自治ソビエト社会主義共和国に変名された。
」
1965年付のソ連内務省の秘密報告によれば、1940年から1953年の期間に、モルドバから46,000人、ベラルーシから61,000人、ウクライナから571,000人、リトアニアから119,000人、ラトビアから53,000人、エストニアから33,000人が強制移送されたとされている。
労働力移転
懲罰としての強制移送はグラグ によって行われ[ 57] 、移送者はソ連の辺境かつ過疎の地域への入植のために強制移住地へと送られた。また、勧誘によって労働力を確保するという手段も取られ、特に強制移住地では再移住を望む人々が多く、いつものように労働力確保のための勧誘が行われていた。その一例として、ドンバス 地域の鉱山やクズバス 地域の鉱山の労働力が労働力確保のための勧誘によって補填されていた。
以下に労働力の移転が行われた事例を示す。
第二次世界大戦後の本国帰還
1945年5月の欧州における終戦後、キールハウル指令 (英語版 ) によって数百万人のソビエト市民がその意思によらずソビエトへ本国送還となった[ 61] 。これは1945年2月11日のヤルタ会談 によりソ連とアメリカ合衆国 、イギリス との間で本国送還に関する合意書が締結された[ 62] 事による。
この協定によって、1945年から1947年の間に全てのソビエト市民が本人の意思に関わらず、強制的に本国送還となった。連合国 当局はヨーロッパ駐留軍に何百万人もの旧ソ連居住者をソ連に送還するように命じた。その中にはドイツに協力した者や、ロシアを離れて久しく、他国の国籍を取得したものも大勢いた[ 63] 。
第二次世界大戦の終結時にはソ連からの避難民500万人がドイツで捕らわれの身となっていた。その内、300万人がドイツや東方の占領地で強制労働 させられていたオスト・アルバイター (英語版 ) であった[ 64] [ 65] [ 66] 。
捕虜として生き残っていた約150万人とオスト・アルバイター、その他のソビエト出身の避難民総計400万人以上がソ連に本国送還となった後、NKVDの特別収容所 (英語版 ) に送還となった(なお、グラグ とは別の強制収容所である)。1946年までに80%の民間人と20%の元捕虜が解放され、5%の民間人と43%の元捕虜は再徴兵され、10%の民間人と22%の元捕虜は労働大隊 (英語版 ) に送られ、2%の民間人と15%の捕虜はNKVD、すなわちグラグに送られた[ 67] [ 68] 。
死者数・犠牲者数
シベリアやカザフスタンの厳しい気候、病気や感染症、毎日最大12時間もの労働搾取、劣悪な住環境により強制移送となった者の死者数は非常に多くなった。すべての強制移送に伴う死者数は80万人から最大150万人であるとされている。下記表では、死者数の総計は約112万人から191万人として推計される。
NKVDの公文書からも強制移送された民族の死亡率 は高く、メスヘティア・トルコ人では死亡率14.6%、カルムイク人では17.4%、クリミア出身者では19.6%、チェチェン人やイングーシ人など北コーカサス出身者では23.7%にのぼった またNKVDは過少に記録していたが、強制移送された朝鮮人の死亡率は10%[ 70] から16.3%であると推定されている。
1930年代 - 1950年代にかけて強制移送された者の中での死者数
民族
推計死者数
脚注
クラーク (1930 - 1937年)
389,521
チェチェン人
100,000 - 400,000人
[ 73] [ 74]
ポーランド人
90,000人
朝鮮人 (高麗人 )
16,500 - 40,000人
[ 70]
エストニア人
5,400人
ラトビア人
17,400人
リトアニア人
28,000人
[ 79]
フィン人
18,800人
[ 80]
ハンガリー人
15,000 - 20,000人
カラチャイ人
13,100 - 19,000人
在ソビエトドイツ人 (ドイツ語版 )
42,823 - 228,800人
オーデル・ナイセ線以東のドイツ人
300,000 - 360,000人
[ 12]
カルムイク人
12,600 - 16,000人
[ 80]
イングーシ人
20,300 - 23,000人
バルカル人
7,600 - 11,000人
[ 80]
クリミア・タタール人
34,300 - 195,471人
[ 84]
メスヘティア・トルコ人
12,859 - 50,000人
[ 85]
合計
1,124,203 - 1,912,392人
歴史学者オーランドー・ファイジズ によれば、スターリン体制下の被害者、つまり銃殺された人、強制収容所に収容された人、特殊居住地に移送されたクラーク、奴隷労働を強制された人、強制移住の対象となった少数民族などの総数は控えめにみつもっても2500万人と推計される[ 86] 。これは1941年当時のソ連の人口2億人の8分の1にあたる。しかし、ここには飢饉の犠牲者や戦死者など戦争犠牲者は含まれない[ 86] 。
M.エルマンは、1934-53年の期間に、グラーグ管理下の労働収容所に収容された囚人を1875万人とし、処刑された人は100万人以上、労働軍その他グラグの強制労働組織に編入された人は200万、強制移住の対象となった少数民族は500万、1928年以降にクラークとして抑圧された人は1000万人と計算する[ 87] [ 86] 。これらを合計すれば3675万人となるが、ここから複数回収容された人を差し引けば、ファイジズの推計2500万人は実態よりも控えめとなる[ 86] 。
ソ連による強制移送の一覧
期間
対象
推定人数
元の居住地
移送先
補足
1920年4月
コサック , テレク・コサック
45,000人
北コーカサス
ウクライナSSR 、ロシア 北部
コサック解体 (英語版 ) やロシア人の北コーカサス入植を止めるために行われた。
1930年 - 1937年
クラーク
1,679,528- 1,803,392
ロシア、ウクライナなど
ロシア北部、ウラル地域 、シベリア 、北コーカサス 、カザフASSR , キルギスASSR
農業集団化 の過程で強制移送された。1930年 - 1931年には1,679,528- 1,803,392人が追放されたと言われる。
1932年11月 - 12月
農民
45,000人
クラスノダール地方 (ロシアSFSR)
ロシア北部
サボタージュ のため強制移送された。
1933年5月
国内パスポートの発給を受けられなかったモスクワ 、レニングラード 在住者
6,000人
モスクワ 、レニングラード
ナジノ島 (ロシア語版 )
モスクワやレニングラードから生産的・事務的な業務を行っていない者やクラーク、犯罪者、反社会主義、反社会的な者の粛清を目的に行われた[ 90] 。
1935年2月 - 5月、1941年9月、1942年
イングリア・フィン人
420,000人[ 91]
レニングラード州 (ロシアSFSR)、カレリア (ロシアSFSR)
ヴォログダ州 (ロシアSFSR)、西シベリア , カザフSSR 、タジクSSR 、シベリア 、アストラハン州 、フィンランド
1935年2月 - 3月
在ソビエトドイツ人、ポーランド人
412,000人
ウクライナ中央部、ウクライナ西部
ウクライナ東部
1936年5月
在ソビエトドイツ人、ポーランド人
45,000人
ウクライナの国境周辺地域
カザフSSR
1937年7月
クルド人
1,325人
グルジア・ソビエト社会主義共和国 、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 、アルメニア・ソビエト社会主義共和国 、トルクメンSSR , ウズベクSSR 、タジクSSR
カザフSSR、キルギスSSR
1937年9月 - 10月
極東ロシアの朝鮮人 (高麗人 )
172,000人[ 93]
極東ロシア
カザフSSR北部、ウズベクSSR
1937年9月 - 10月
中国人 、ハルビン出身のロシア人 (英語版 )
9,000人
極東ロシア 南部
カザフSSR、ウズベクSSR
1938年
イラン系ユダヤ人
6,000人
マル州 (トルクメンSSR)
トルクメンSSR北部の砂漠地帯
1938年1月
アゼルバイジャン人 、イラン人 、クルド人 、アッシリア人
6,000人
アゼルバイジャンSSR
カザフSSR
イラン 国籍保持のため移送
1940年1月 - 1941年
ポーランド人、ユダヤ人 、ウクライナ人 (ポーランド からの難民含む)
320,000人
ウクライナSSR西部、ベラルーシSSR西部
ロシア北部、ウラル地域、シベリア、カザフSSR、ウズベクSSR
1940年6月 - 1953年
エストニア人 、ラトビア人 、リトアニア人
203,590人
エストニア、ラトビア、リトアニア
シベリア、アルタイ地方
1941年9月 - 1942年3月
ヴォルガ・ドイツ人 、クリミア・ドイツ人 (ドイツ語版 、英語版 ) 、コーカサス・ドイツ人 (ドイツ語版 、英語版 ) などのソビエト国内のドイツ人
855,674人
ポヴォルジェ (英語版 ) (沿ヴォルガ川地域)、コーカサス 地域、クリミア、ウクライナ、モスクワ、ロシアSFSR中央部
カザフSSR、シベリア
1943年
カラチャイ人
69,267
カラチャイ・チェルケス自治州 (ロシアSFSR)、スタヴロポリ地方 (ロシアSFSR)
カザフSSR、キルギスSSRなど
盗賊行為などのために移送
1943年12月
カルムイク人
93,139人[ 93]
カルムイクASSR (ロシアSFSR)
カザフSSR、シベリア
1944年2月
チェチェン人 、イングーシ人
478,479人
北コーカサス
カザフSSR、キルギスSSR
チェチェン反乱(1940年 - 1944年) (英語版 )
1944年4月
クルド人 、アゼルバイジャン人
3,000人
トビリシ (グルジアSSR)
グルジアSSR南部
1944年5月
バルカル人
37,406人-40,900[ 93]
北コーカサス
カザフSSR、キルギスSSR
1944年5月
クリミア・タタール人
191,014[ 93]
クリミアASSR (ロシアSFSR)
ウズベクSSR
1944年5-6月
ギリシャ人 、ブルガリア人 、アルメニア人 、トルコ人
37,080人(アルメニア人9,620人、ブルガリア人12,040人、ギリシャ人15,040人)
クリミアASSR (ロシアSFSR)
恐らくウズベクSSR
1944年6月
カバルド人
2,000人
カバルダ・バルカルASSR (ロシアSFSR)
カザフSSR南部
ナチス への協力のため移送
1944年7月
カタコンベ系諸正教会 信徒
1,000人
ロシアSFSR中央部
シベリア
1944年11月
メスヘティア・トルコ人 、クルド人 、ヘムシン人 、ポントス人 、カラパパク人 (英語版 ) 、ラズ人 などグルジアSSR南西部国境地域の住民
115,000人[ 93]
グルジアSSR南西部
ウズベクSSR、カザフSSR、キルギスSSR
1944年11月 - 1945年1月
ウクライナのハンガリー人 , ドイツ人
30,000〜40,000人
ハンガリー領カルパティア・ルテニア (英語版 )
ウラル地域、ドンバス 、ベラルーシSSR
1945年1月
ナチス への協力者や内通者
2,000人
ミネラーリヌィエ・ヴォードィ (ロシアSFSR)
タジクSSR
1944年 - 1953年
ウクライナ蜂起軍 構成員の家族
204,000人[ 104]
ウクライナ西部
シベリア
1944年 - 1953年
ポーランド人
1,240,000人[ 91]
クレスィ (英語版 ) (ポーランドとの国境地帯)
第二次大戦後のポーランドの領域
ソ連が戦後獲得した地域からの住民の追放に伴う
1945年 - 1950年
ドイツ人
数十万人
ケーニヒスベルク
ドイツ中央部、ドイツ西部
ソ連が戦後獲得した地域からの住民の追放に伴う
1945年 - 1951年
日本人 、朝鮮人
400,000人
南樺太 、千島列島 など
日本 、北朝鮮 、極東ロシア、シベリア
ソ連が戦後獲得した地域からの住民の追放に伴う
1948年 - 1951年
アゼルバイジャン人
100,000人[ 106]
アルメニアSSR
クラ・アラス低地 (英語版 ) 、アゼルバイジャンSSR
集団農場の労働者を再定住させるための措置
1949年5月 - 6月
ギリシャ人 、アルメニア人 、トルコ人
57,680人(そのうち15,485人はダシナク党 員)
ロシアSFSRの黒海沿岸の地域、南コーカサス
南カザフスタン
民族主義政党であるダシナク党 の党籍を持っていた者やトルコ、ギリシャの国籍保持のため移送
1951年3月
バスマチ蜂起 の反乱者
2,795人
タジクSSR
カザフSSR北部
1951年4月
エホバの証人 信徒
8,576人 - 9,500人
モルダヴィアSSR、ウクライナSSR][ 109]
西シベリア
Operation North (英語版 ) に伴う措置
1920年 - 1951年
合計
〜20,296,000人
ジェノサイドとしての認定に関する議論
歴史学
ロシアの歴史家のパーヴェル・ポリャン (英語版 ) やエール大学 の准研究員Violeta Davoliūtėらの歴史家は民間人の大規模な強制移送が人道に対する罪 にあたるとしている。また、ソビエトによる民族浄化 にあたるとみなす歴史家もいる。
追放されたクリミア・タタール人の葬儀(クラスノヴィシェスク (英語版 ) ,1944年暮れ)
さらに、クリミア・タタール人、チェチェン人、イングーシ人の追放をジェノサイド とみなす動きを見せる国や学者もいる。ポーランド系ユダヤ人弁護士で、「ジェノサイド」の語を発案したラファエル・レムキン (英語版 ) はチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、カルムイク人、カラチャイ人の大規模な移送によってジェノサイドが実行されたと考えた[ 114] 。Lyman H. Legters教授が主張するには、「再移住制度と結びついたソビエトの刑罰制度は特に特定の民族に重い刑罰が科されたためにジェノサイドとみなすべきで、特定の故郷に生死が左右されるようなこれらの民族を移住させることは故郷への帰還でしか修復が不可能なジェノサイド的な効果を持っていた。」という。ソビエトの反体制派のIlya Gabayとピョートル・グリゴレンコ (英語版 ) は共に、クリミア・タタール人追放をジェノサイドとしている。 歴史家のティモシー・スナイダー も強制移送を「ジェノサイドの基準を満たす」ソビエトの政策の一覧に含めている[ 118] 。共産主義研究家でフランス人歴史家のニコラ・ヴェルト (英語版 ) 、ドイツ人歴史家のPhilipp Ther、Anthony James Joes教授、アメリカ人ジャーナリストEric Margolis (英語版 ) 、カナダ人政治学者Adam Jones (英語版 ) 、マサチューセッツ大学ダートマス校 (英語版 ) のイスラム歴史学者のBrian Glyn Williams 、学者のMichael Fredholm、Fanny E. Bryanもチェチェン人とイングーシ人の追放がジェノサイドの罪であるとしている。ドイツ人調査報道官のLutz Kleveman (英語版 ) はチェチェン人とイングーシ人の追放を「鈍重なジェノサイド」となぞらえた。
アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館 の学者は1944年の一連の出来事を引き合いに出して、ジェノサイドの可能性があるとし、大量殺戮のウォッチリストにチェチェン人の追放を含めた[ 128] 。 チェチェン共和国の分離主義者もチェチェン人の追放をジェノサイドとみなしている。
一方、一連の追放をジェノサイドとみなすのに否定的な学者もいる。学者のAlexander Statievはスターリン政権は強制移送が様々な民族を絶滅させる意図は無かったが、ソ連の政治文化、貧弱な計画、性急さ、戦時の物資欠乏によって追放者の死亡率が大量殺戮的のようになったと主張する。 彼はまたソビエトにとって強制移送が望ましくない民族を同化 する一手段であったとしている。 学者のAmir Weinerによれば、 "政府が根絶しようと試みたのは(少数民族の)領域的なアイデンティティであり、物理的な存在や画然な民族意識ではなかった。"という。 学者のFrancine Hirschによれば、"ソビエト政権は差別 や社会的排除 を目的とした政策を実行したが、同時期に考えられていた人種政治 (英語版 ) を実践したのではなかった。"とし、大規模な追放は民族を"意識を共有する社会史的な集団であり、人種生物学的な集団ではない"という概念に基づいていたという。その視点とは対照的にJon K. Changは強制移送は事実として民族に基づいて行われおり、西欧の「社会史家」はソ連で軽んじられた民族の権利を擁護できなかったと主張している[ 133] 。
ペレストロイカのソ連
ペレストロイカ 時代、ソビエト連邦の崩壊 直前の1991年 4月26日 にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 最高会議 は、ボリス・エリツィン 議長の下で抑圧された人々の名誉回復のための法を定め、その第2条では"スターリンの政策は名誉棄損でジェノサイドにあたる"と非難した[ 3] 。
欧州議会
クリミア・タタール人追放 とチェチェン人とイングーシ人の追放 (英語版 ) では死亡率が高くなり、ウクライナ などの国々やヨーロッパ議会 ではジェノサイド の認定を受けている[ 1] [ 2] 。
欧州議会 は2004年にチェチェン人とイングーシ人の強制移送をジェノサイドに認定した[ 134] 。
ウクライナ
2015年12月12日、ウクライナ最高議会 はクリミア・タタール人の追放 をジェノサイドに認定し、5月18日を「クリミア・タタール人虐殺の犠牲者を追悼する日」とする決議を行った[ 135] 。
ラトビア
ラトビア の議会であるサエイマ でも2019年 5月9日 にクリミア・タタール人虐殺をジェノサイドと認めている[ 136] [ 137] 。
リトアニア
リトアニア の国家議会であるセイマス では2019年6月6日 に[ 138] クリミア・タタール人虐殺をジェノサイドと認めている。
カナダ
カナダ議会でもクリミア・タタール人追放をジェノサイドと認定し、5月18日 を追悼の日とする動議を2019年6月10日に可決している[ 139] [ 140] 。
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関連図書
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28 августа 1941 г. Указ Президиума Верховного Совета СССР "О выселении немцев из районов Поволжья".
1943 г. Указ Президиума Верховного Совета СССР "О ликвидации Калмыцкой АССР и образовании Астраханской области в составе РСФСР". *Постановление правительства СССР от 12 января 1949 г. "О выселении с территории Литвы, Латвии и Эстонии кулаков с семьями, семей бандитов и националистов, находящихся на нелегальном положении, убитых при вооруженных столкновениях и осужденных, легализованных бандитов, продолжающих вести вражескую работу, и их семей, а также семей репрессированных пособников и бандитов"
Указ Президиума Верховного Совета СССР от 13 декабря 1955 г. "О снятии ограничений в правовом положении с немцев и членов их семей, находящихся на спецпоселении".
17 марта 1956 г. Указ Президиума Верховного Совета СССР "О снятии ограничений в правовом положении с калмыков и членов их семей, находящихся на спецпоселении".
1956 г. Постановление ЦК КПСС "О восстановлении национальной автономии калмыцкого, карачаевского, балкарского, чеченского и ингушского народов".
29 августа 1964 г. Указ Президиума Верховного Совета СССР "О внесении изменений в Указ Президиума Верховного Совета СССР от 28 августа 1941 г. о переселении немцев, проживающих в районах Поволжья".
1991 г: Laws of Russian Federation: "О реабилитации репрессированных народов", "О реабилитации жертв политических репрессий".
関連項目
外部リンク