タイ軍事クーデター (2006年)![]() ![]() タイ軍事クーデター(タイぐんじクーデター)は、2006年9月19日、タイ王国軍の反タクシン派将校が下士官・兵士を率いて、タクシン政権を倒した軍事クーデター事件。 概要9月19日の午後、十数台の戦車がバンコク中心部一帯と政治・行政の中枢部を包囲し、約50名の兵士が政府庁舎内に入り、これを占拠した[1]。 クーデター発生時、国連本部において開催される国連総会に出席するため、ニューヨークを訪問中であったタクシン・シナワット首相は、この一報を聞くと即座に陸軍総司令官のソンティ・ブンヤラットカリンを解任し、ルアンロー国軍最高司令官に対しクーデターへの対処を指示した。しかし、これを抑えきれることはできず、ルアンロー国軍最高司令官もクーデターに加わり、警察もこれに参加したことにより、無血クーデターは成功した。 クーデターを指揮していると見られるソンティ司令官は、国軍を統帥している国王ラーマ9世に忠誠を誓い、20日未明、憲法を停止して戒厳令を全国に布告した上で、軍事政権が全権を掌握したと発表した。 タクシン首相は、クーデターにより帰国できなくなり、外遊先のニューヨークから私邸のあるロンドンに入り、これ以降事実上の亡命生活に入った。 クーデターの結果、粛軍の名目でタクシン派は一掃され、クーデター以後は軍部の政治的発言権が増大し、文民統制が及ばなくなった。 背景![]() タクシン・シナワット首相は地方を中心とする国民の支持のもと、地方の近代化を強力に推し進めた。タクシン首相は経済格差の是正や低所得者への富の平等な分配などを目指して既得権益に切り込んだ大胆な政策を行ったため、政権に対する特権階級からの不満が急速に高まった。 2006年1月に、タクシン・チナワット首相の親族による株式インサイダー取引疑惑が発覚し、一挙に政治不信が伝統的特権階級の間で増大し、これに都市部の中流階級も加勢した。また、タクシンは就任当時から汚職の疑いが多数もたれていた。このため、タクシン政権は人民代表院(下院)を解散して再選挙を行うという手を打ったが、主要野党が出馬をボイコットしたため、法服貴族によって構成されている憲法裁判所が選挙無効を宣言した。 下院総選挙後にタクシン首相は退陣する意向を示したが、そののち公務に復帰し、反タクシン派からの反発を買った。 2006年8月には、陸軍幹部による首相暗殺未遂事件が発覚。この頃から、軍内部では、クーデターによる国家改造を否定し政財界に接近するタクシン首相派と、国王中心の国体史上主義を信奉する反タクシン首相派との間に分かれていることも同時に発覚した。 当時のルアンロー国軍最高司令官は、「王室を巻き込むのは我慢の限界」との旨を表し、タクシンに対してかソンティに対してかを明言せずに、「何かあるかもしれない」と何らかの形で軍隊が政治に介入する旨を示していた。ただし、実質の最高権力者であったソンティ陸軍司令官は当時、陸軍がクーデターを起こすことはないと明言していた。 しかし、反首相派は、国王に全幅の忠誠を誓ったうえで、2006年9月19日に軍事クーデターを決行した。この時、タクシン首相はアメリカ合衆国、ニューヨークの国連本部で開かれていた国連総会に出席するため同地に滞在しており、首相の不在を狙った計画的クーデターとの観測が流れた。 国際社会の反応
影響
脚注
参考文献タイのクーデターについて(2006年9月22日・公益財団法人 国際金融情報センター) 関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia