タキソールの構造式
有機化学 において、タキソール全合成 (タキソールぜんごうせい、英 : Taxol total synthesis )は現在も続いている主要な研究課題の1つである。このジテルペノイド は重要な癌 の治療薬であるが、タイヘイヨウイチイ (pacific yew) などからわずかしか採取できないため高価である。タキソール の化学合成 法が開発できれば、それ自体が商業的・化学的に重要であるだけでなく、より強い効果を持つ可能性を秘める天然には見られない誘導体 の合成への道が開ける。
タキソール分子はバッカチンIII (baccatin III) と呼ばれる4環性の核部分とアミド 尾部からなる。環の部分はそれぞれ左からA環(シクロヘキサン)、B環(シクロオクタン)、C環(シクロヘキサン)、D環(オキセタン)と略称される。
タキソール製剤の開発には40年以上が費やされている。タイヘイヨウイチイの樹皮の抽出物の抗腫瘍活性は、20年間に及ぶアメリカ 政府の抗癌剤探索計画の1つである植物スクリーニング計画 (plant screening program) での追跡調査の末、1963年に発見された。抗腫瘍性を示す活性基質は1969年に発見され、構造決定は1971年に完了した。フロリダ州立大学 のロバート・ホルトン が1994年にタキソールの全合成に成功した(計画の開始は1982年)。ホルトンはまた、1989年に 10-デアセチルバッカチンIII からの半合成 によるタキソール合成法を開発している。この化合物は生合成における前駆体であり、ヨーロッパイチイ (Europian yew, Taxus baccata) からタキソールよりも大量に得られる。ブリストル・マイヤーズ スクイブ 社がこの合成法の特許を買い取り、フロリダ州立大学とホルトン(取り分40%)は合わせて2億ドル 以上を受け取っている。
要点
位置番号と環の名称
全合成 を報告している研究グループは、2024年1月現在10グループを数える[要出典 ] 。いくつかの方法は完全な全合成だが、天然物 を前駆体 としているものも含まれる。各方法の要点を以下にまとめる。全ての合成戦略に共通するのは、まずバッカチン部分を合成し、最終段階で尾部を付加する尾島ラクタム法 (英語版 ) に基づいている点である。
ホルトンのタキソール全合成 - 1994年にロバート・ホルトンらによって発表された。パチョロール を前駆体とする直線的合成で、A,B環、C環、D環の順に構築する。
ニコラウのタキソール全合成 (英語版 ) - 1994年にキリアコス・コスタ・ニコラウ らによって発表された。プロピオン酸エチル (ジエノフィル )、アセトン とアセト酢酸エチル (ディールス・アルダー ジエン)を前駆体とした収束的合成 で、A環とB環からA,B,C環とした後にD環を構築する。
ダニシェフスキーのタキソール全合成 - 1996年にサミュエル・ダニシェフスキー らによって発表された。ウィーランド・ミーシャーケトン を前駆体とする。
ウェンダーのタキソール全合成 (英語版 ) - 1997年にポール・ウェンダー らによって発表された。ピネン を前駆体とする[ 1] [ 2] 。
向山のタキソール全合成 (英語版 ) - 1998年に向山光昭 らによって発表された[ 3] 。
桑嶋のタキソール全合成 (英語版 ) - 1998年に桑嶋功 らによって発表された[ 4] [ 5] 。
高橋のタキソール全合成 (英語版 ) - 2006年に高橋孝志 らによって発表された。ゲラニオール を前駆体とする収束的合成。高橋らによって開発された液相自動合成装置が用いられた[ 6] 。バッカチンIIIまでの形式全合成で、ラセミ体 だが300gの大量合成に成功した。
フィル・バラン (英語版 ) - 2020年に発表された[ 7] 。他のグループとは異なり、生合成を模倣して炭素骨格を構築してから酸化反応を行う「Two-phase synthesis」による[ 8] 。
李闖創 - 2021年に発表された合成法で、C1-C2結合の形成によりB環を構築する[ 9] 。
井上将行 - 2023年に発表された。2,2-ジメチル-1,3-シクロヘキサンジオン を前駆体とする収束的合成。分子間・分子内ラジカルカップリング反応 によりA,B,C環を構築する[ 10] 。この全合成は34工程だったが、同年11月にはさらに改良して28工程に短縮された[ 11] 。
生合成
タキソールの生合成。OPP はピロリン酸エステル 基を表す。
タキソールの生合成過程は約20段階の酵素反応からなることが分かっているが、全容は未だ明らかになっていない。知られている各段階はこれまで試みられてきた化学合成経路とは大きく異なる。出発物質はゲラニルゲラニル二リン酸 2 で、これはゲラニオール 1 の2量体である[ 12] 。この化合物はタキソール骨格を形成する20の炭素を全て含んでおり、閉環により中間体 3 を経てタクスシン (taxusin) 4 を与える。この種の反応が実験室での合成に適さないのは、立体化学の制御と、酸素原子を持つ炭化水素骨格の活性化が困難なためである。生合成では、酸化反応について有効なシトクロムP450 により、はるかに優れた仕事がなされている。中間体 5 は前述の10-デアセチルバッカチンIII である。
脚注
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^ Wender, Paul A.; Badham, Neil F.; Conway, Simon P.; Floreancig, Paul E.; Glass, Timothy E.; Houze, Jonathan B.; Krauss, Nancy E.; Lee, Daesung et al. (1997-03-01). “The Pinene Path to Taxanes. 6. A Concise Stereocontrolled Synthesis of Taxol” (英語). Journal of the American Chemical Society 119 (11): 2757–2758. doi :10.1021/ja963539z . ISSN 0002-7863 . https://pubs.acs.org/doi/10.1021/ja963539z .
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^ タキソールのTwo-Phase合成
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^ “抗がん剤タキソール全合成の新戦略 ”. 東京大学 . 2024年1月17日閲覧。
^ Chau, M.; Jennewein, S.; Walker, K.; Croteau, R. "Taxol biosynthesis: molecular cloning and characterization of a cytochrome P450 taxoid 7β-hydroxylase". Chem. Biol. 2004 , 11 , 663–672. Abstract Archived 2006年11月2日, at the Wayback Machine .