タチヤーナ・ブラーノヴァ
タチヤーナ・イヴァーノヴナ・ブラーノヴァ(ロシア語:Татьяна Ивановна Буланова、1969年3月6日 - )は、ロシアの歌手である。 概要出生タチヤーナ・ブラーノヴァは、1969年3月6日、当時レニングラートと呼ばれた現在のサンクトペテルブルクに生まれた。 父のイヴァン・ペトローヴィチ・ブラーノフはレニングラート海軍潜水艦高等学院卒の北方艦隊勤務員で、機雷や魚雷の扱いを専門とするエリート軍人であった。ミサイル潜水艦が誕生したとき、彼はその最初の指揮官のひとりとなった。1968年に海軍アカデミーを卒業し、研究所所長としての勤務を始めていた。1990年に退役したときには1等佐官にまで出世した。 一方、母のニーナ・パーヴロヴナ・ブラーノヴァは写真家であった。ブラーノフ夫妻には2人の子供が授かり、それはターニャと兄のヴァレンチーンであった。ヴァレンチーンもまた父同様、潜水艦の勤務員となった。 少女時代第1学年のとき、ターニャは新体操に取り組んだ、しかし、音楽学校での教育のため、新体操は諦められた。ブラーノフ家には音楽の専門家は誰一人としてなかったが、ターニャは母親の影響で音楽に興味を持った。ターニャは音楽学校のピアノ科に進学し、これを卒業した。15歳までターニャは町の楽団でギターを演奏していた。 学校卒業後、ターニャはN・K・クループスカヤ記念レニングラート文化単科大学(現在のサンクトペテルブルク国立文化芸術総合大学)への進学を試みた。しかし、ターニャは大学受験に失敗した。1987年、改めて同大学の夜間学部を受験したターニャは、図書学部の司書・書誌学者科に入学を果たした。 学業と併行し、ターニャは海軍アカデミーの図書館の外国語課で職に就いた。そうした中、ターニャはペテルブルク音楽ホールの学校が学生を募集していることを知った。ターニャは、1989年秋に大学を3年で止め、音楽学校の声楽科に転学した。 活動12月には、ターニャはニコライ・タグリンと知り合った。この人物は、ソ連の音楽グループ「レートニイ・サート」のリーダーであった。ターニャはこのグループとともに活動を開始し、最初の曲を書いた。その後、ターニャはグループとともにロシア共和国中の都市を巡業した。1990年4月16日に技術大学の演劇舞台で行った公演が、ターニャにとっての初舞台となった。 1991年、ターニャはグループ「レートニイ・サート」とともに音楽フェスティバル「ヤルタ91」(«Ялта-91»)に参加し、『泣かないで』(«Не плачь»)でグランプリを獲得した。また、その後もグループとともに活動を続け、テレビ番組「灯火」(«Огонёк»)に参加した。ここで彼女らは『このようでなかったら』(«Как бы не так»)を歌った。その後、ターニャは多くの町で舞台に立つようになり、1993年にはグループとともに極東まで遠征した。同年3月19日には彼女の最初の息子アレクサンドルが誕生したが、夫とは離婚した。1994年には、ターニャと「レートニイ・サート」のカセットは、ロシアとしては大規模となる20万以上の売り上げを記録した。 1996年、アルバム『私のロシアの心』(«Моё русское сердце»)の発表後、ターニャはサンクトペテルブルクで開催された2本のテレビドラマの製作に参加した。 2003年には、ターニャはコンサート「2003年の歌」(«Песня года 2003»)でK・I・シュリジェンコ記念賞を受賞した。2004年11月23日には、ターニャは「ロシア連邦功労芸術家」(«Заслуженный Артист Российской Федерации»)の称号を授与された。2005年10月18日には、ロシアのサッカー選手のウラディスラフ・ラディモフと再婚した。2007年には、彼との間に子供が生まれた。 ディスコグラフィーアルバム
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